“辰野金吾”さんが設計した【武雄温泉新館】をじっくり観てみよう! | あもん ザ・ワールド

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佐賀県武雄市を歩く3

放浪日2019年8月15日

 

1300年の歴史がある【武雄温泉】を歩いて観ています

武雄温泉の特徴は、透明で柔らかな湯ざわりだそうです

泉質は様々な成分が程よく入った弱アルカリ単純泉です

保温性に優れ、肌に馴染んでしっとりとすることから、美人の湯と呼ばれています

大正4年に“日本近代建築の父”と称された辰野金吾の設計でが出来上がりました

この建物はそれを平成15年に復元されたそうです

ここで、温泉に入れるのかと思いましたが、展示施設となっているみたいです

そう言えば、楼門入ってすぐに【武雄温泉】と書いた入り口があったので

温泉に入るのなら、そっちに行くべきなのでしょう


おっつ、奥に湯舟っぽいモノがあるぞ!

大正4年の湯舟が復元されてるのか?

女性風呂でありますかっ!

あもんはおっさんですが、入っても良いのですか?w

靴を脱げば良いのね!服は脱がなくても良いのね!w

おお!あれは番台でしょう!

小学生の頃に『番台のおじさん、羨ましいな~』と誰もが思ったでしょうw

意外と結構、見えるシリーズなのねw

さて、男なら誰もが憧れる“女子風呂”ですw

男が堂々と女子風呂を観られるのはここしかないかもしれませんよ!

多角形の壁に囲まれた真ん中に台形の湯舟

梯子と手すりがあって、椅子もある仕様です

天井がこれまた、素晴らしい!!

当時の日本の技術力が集結したかのように素晴らしい!!

えっつ!ちょっと湯が張っている?

もしかして、現役のお風呂ですか?

だったら、あもんは犯罪者になりますが、大丈夫でしょうか?w

湯舟の床はタイルで壁と椅子は石です

現代でも高級感たっぷりのお風呂となっています

この仕様を大正4年に観たら、カルチャーショックを受けるでしょう

こんな設計をした辰野さんって、どんな日本人なんだ?とも思ったでしょう

湯船につかって上を見上げるとこの天井が現れます

換気の事を考えた実用的なデザインですが

見惚れる程の美しさもありますね

ずっと見続けていたら、天に吸い込まれる気分となって

天女になれそうな気分となった大正ギャルがいたでしょうねw

日本でお風呂の習慣が始まったのは、なんと奈良時代だそうです

鎌倉時代に庶民にも知られるようになり、室町時代では幕府により日程を決めてお風呂がふるまわれていたそうです

当時は日常的な事では無く、決まった日に庶民がお風呂に集まって入浴し

入浴後には茶の湯や酒宴を開くという特別な催しだったそうです

“銭湯”が始まったのは江戸時代になってからです

最初の銭湯は蒸し風呂だったと考えられますが

やがて、半身浴を楽しむようになり、ついに湯を首までつかる習慣となりました

そして、銭湯は上下関係なく裸で付き合いができる憩いの場となっていくのでした

また、朝から湯を沸かして午後6時には閉店していたそうです

やがて、銭湯でお客に湯茶のサービスをする“湯女”が現れ活躍するようになります

湯女は昼にお客の背中を流しますが、夕方を境に三味線を手に遊客をもてなします

あの、千と千尋の神隠しの舞台となりましたよね

こうして湯女風呂が徐々に人気となっていき、全盛期にはあの吉原遊郭が錆びれるほどの賑わいだった言われています

ただ、風紀上はあまりよろしく無かったらしく、江戸幕府は禁止令を発します

幕府は徹底的に湯女風呂を取り締まり、湯女を強制的に吉原に送り廃止されます

その後、銭湯は庶民の憩いの場としては続いていき

かつて湯女が客をもてなしていた広間は解放されて

社交場として利用されるようになったそうです

また江戸時代の銭湯は基本的に男女混浴でありました

江戸時代後期にも混浴はいけないだろうと禁止令がでます

しかし、長年の風習はそう簡単に改まらないみたいで

実際に混浴が無くなったのは、明治時代中期だと言われています

その頃から現代の銭湯の原型が造られるようになり

大正時代には銭湯の近代化されタイルが貼られるようになったそうです

蛇口が壁についていて、外壁に向かって座って洗うスタイルです

ところで、この温泉マークは何ですか?

なるほど!大正4年創業時に楼門に掲げられていたのですね!

なるほど!電飾で温泉マークが着いたのですね

まさに当時の庶民にとっては“竜宮城”の様に観えたのかもしれません!

大正時代ですから、湯女もいないし、混浴でもないので

庶民は単純に銭湯を楽しむためにこの楼門を潜ったのでしょう

 

ということで、続きます