福岡県田川市を歩く8
放浪日2019年8月12日
日本が近代国家へ生まれ変わるには、エネルギーとなる石炭が必要でした
そこで、日本は豊富な石炭を埋蔵する遠賀川流域に注目しました
そして、明治時代中期から筑豊の出炭量は激増し
日本で産出する石炭の約半分は筑豊からとなったそうです
筑豊石炭は国内へはもちろん、海外にも輸出されて需要が拡大し
日本最大の産炭地に成長していきました
ここ、田川市の【石炭記念公園】にある【田川市石炭・歴史博物館】で
日本最大となった炭鉱町の歴史を学んでいます
【田川炭鉱】の採掘開始は明治時代にさかのぼります
明治18年に海軍の予備炭田になりましたが、その後は田川採炭組合の経営になりました
明治37年に三井財閥系の三井鉱山が経営を継ぎ、財閥の力で近代的な生産体制が整備されました
“伊田第一竪坑櫓”や“動力用蒸気ボイラーの煙突”もその後に造られていきました
大正7年に“三井田川鉱業所”となり、鉱員数1万6千人以上という大炭鉱となりました
この頃から全国から炭鉱マンが田川市に移住してくるようになります
近代的設備が整い、田川鉱山の繁栄を約束したかに見えましたが
第一次大戦後の不況や、続く昭和恐慌により、更なる合理化を余儀なくされました
合理化のひとつに機械を活用し、人力を減らすという事もあったのかもしれません
昭和15年には戦時増産体制により、筑豊地区で全国の36%という史上最高記録を達成し、国内最大の産出量を誇りました
昭和18年、筑豊最大の炭鉱ができあがり、炭都と呼ばれるようになり
人口7万三千人を超える田川市が誕生しました
しかし、戦争が激化すると何故か出炭量は激減してしまいます
戦後、朝鮮戦争特需により一時は戦前の水準に回復しましたが
1950年代後半からのエネルギー改革や石炭不況によって
筑豊の炭鉱は軒並み閉山をしてくようになります
“三井田川鉱業所”は昭和39年に閉山し、“新田川炭鉱”が経営を引き継ぐも
昭和45年には市内から炭都の灯りが消えたのでした
そんな田川市が、現在どんな町となっているのか?
先ほど見つけた、アーケード商店街を中心に歩いて観てみようと思います
この地下道を通って商店街まで行けるみたいです
おっと!【作兵衛トンネル】でありましたか!
どんな絵が描かれているのか楽しみです!
真っすぐな地下道の両壁に描かれています
まずは、作兵衛さんから
作兵衛さんも未来の田川の子供たちに描かれて幸せでしょう
作兵衛さんの炭鉱記録画によって、炭鉱の仕事の凄さが伝わっているみたいです
そう考えるとやはり、作兵衛さんの作品は世界遺産ですよね
水害が起きた時に集まった炭鉱マンが町を守っている?
青い無精ヒゲがちょっと面白かったりもしますw
作兵衛さんを尊ぶ教育がされていますね~
命かけて地球に向かう人ですか!中々な表現です!
そして、背中と腕の入れ墨も中々な表現です!w
当時の田川市の世情が伺えますw
おっと!園児の落書きチックなのも描かれていますよ!
なかなか珍しいトンネル壁画として仕上がっていますw
園児の楽しくてしょうがない様が現れていますねw
あっつ!最近描いたモノだった!
令和元年記念のお絵描きだったのでしょうか?
実際令和元年が始まったのは、2019年5月1日のはずですが
もう、令和が好きになっていますがw
炭鉱マンどうしで、喧嘩が絶えなかったのかな?
多分、違いますw
子供たちが命について語っている!
田川市は中々良き教育をされている!!
よっぽど、令和になることが嬉しかったのでしょうねw
当時の子供たちは今より貧しく大変だったのですよ~
自分が生まれた町の歴史を知ることは大事なことです
田川市に生まれたら日本の歴史が深く学べるかもしれません
大正時代のお母さんも大変だったのですよ!!
女性が炭鉱で働きながら家族を守っていた時代です
そんなお母さんに感動できている田川市の子供たちはえらい!
立派な大人に成長していっていただきたい!
上半身裸で働くお母さん!
これは、あもんにも衝撃的でありました!
この日本の深い歴史を全国の子供たちに伝えたいです!
その下には、可愛らしい動物炭鉱マンw
このギャップにツボりましたww
自分の生まれた町が大好きな事は素晴らしい事!
ふむ、ちょっと、
この子の発想は難しいw
坑内の女はモナリザにも負けていないのですね!!
どう教育したら、こんな素敵な表現をする子になるのでしょうか?
そして、令和時代が待ち遠しい雰囲気ww
田川市の深い歴史は、きちんと子供たちに語り継がれていました
田川市の子供たちはきっと、日本の将来を明るく照らしてくれるでしょうね~
ということで、続きます