放浪日:2017年10月7日
2018年のNHK大河ドラマ【西郷どん】放送に向けて盛り上がっている鹿児島を歩いています
まずは【維新ふるさと館】で薩摩の偉人を知ることから始めてみました
日本陸軍の礎を築いた【大山巌】です
なるほど、西郷隆盛と血筋が繋がっていたのですね!
さて、薩摩には【郷中教育】の文化がありました
簡単に言えば、同じ町内会の勉強会で、先輩が後輩に教えるというシステムが成立していたということです
いわゆる、ご近所みんなファミリーという構成を幼き頃から経験していたのですね
全国で活躍する薩摩同志の結束が強かったのもこの教育のお陰でしょうね
しかし、その結束が強すぎて、脆くなってしまったのも日本の歴史にはあります
きちっとしていますねw
幼き頃からこの様な教育がなされていると、それは偉人は育つわ!と思います
そこに、貧富の差が無かったことはグッドジョブ♪薩摩ですよね
“降参言わせ”という教育とはどんな教育なのでしょうか?
薩摩男子は2才にして教育者になるのですか!
『負けるな!嘘を言うな!弱いものをいじめるな!』と現代の大人共にも教えたい!
あっつ、2才とは14~25歳ぐらいのことを言うのだったw
おお!これは!チェストーーで有名な示現流,野太刀自顕流ですね!
“一太刀で必ず相手を倒す”が極意ですか!
二大刀で勝っても、負けらしいですよ
トンボの構え!
おお!現代でも確実に継承されている!
朝に3千、夕に8千と打って鍛えたと書かれていましたが
そこまで徹底してやれば、強い薩摩男子が育成されるわけですよ!
現実模型がありました
チェストーーって打ってみましたが、手が痛かったという広島男子でしたw
薩摩男子は文学にも熱心だったみたいです
当時のモールス信号があったので、いじっていたら隣で少女もいじっていました
少女があもんにモールス信号を送っていましたよw
こちらは、写真撮影の様子です
ここに座ってみましたが誰も写真を撮ってくれませんでしたw
おお!これが【薩摩切子】ですか!
薩摩切子の技術は幕末動乱により途絶えたと言われています
現存する数は200点程度で、数百万で取引がなされているようです
昭和後半に薩摩切子の復刻版が試された結果、見事に技術が復活したそうです
食器、貨幣、蝋燭、氷砂糖、医薬品などが自家製で造っていた薩摩人です
これもきっと【郷中教育】の成果なのでしょうね
子供にはどんな身分であってもチャンスは与えるのが正解みたいです
戦争兵器技術も外国に攻められた時に手に入れた技術なのでしょう
【敵に勝つには敵から学べ】が薩摩の方針でした
この方針が後に日本国民に受け継がれ
戦争後は技術によって『日本製品が一番だ』と世界に言わしめたのでしょう
あのおじさんも、誰かが写真を撮ってくれるのを待っているのでしょうか?w
別の部屋では日本政府のアレコレがミニチュアと共に展示されていました
明治維新後、日本はアジアで初めての近代的立憲君主国家となり
明治23年の第1回帝国議会開催の時は“お国訛りがカンカンガクガク”の議論が展開されたと書かれていますw
つまり、何言ってるか分からなくて議論にならなかったということですか?w
北海道開拓も新政府の改革でした
さむいのなんの!ってw
正直な意見ですがw
留守政府とは岩倉使節団が外国を視察中に留守を守った政府で
西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助などが居たそうです
“やることが大胆”と風評がある政府だったみたいですw
岩倉使節団にとっては『おいおい~聞いてないよ~』って感じだったのでしょうw
この“大急ぎの近代化”にはあの薩摩スチューデントが活躍したみたいですよ
でも、国民がこのスピードについていくのが必至だったでしょう
あもんもよく『最近の流行りにはついていけんわ~』とか言いますが
当時はそんな小言を言う暇なく文化が変貌している時代だったのでしょう
町はいつも大騒ぎだったみたいですw
電線はモノを運ぶ線ではありませんよw
それ、ですよね~
西郷どんは、何を考えながら明治政府で仕事をしていたのでしょうか?
明治維新後の西郷どんの活躍はあったのか無かったのか疑問符がありますよね
あもんの勝手な意見としては、西郷どんは“政治”が好きではなかったのでは?です
国の統制にはルールは必須ですが、ひとつのルールを作ることによって苦しむ民も生まれます
国民一人一人みんなを満足させられる国造りは不可能ではありますが
それが出来ないことに葛藤して、後年は若干自暴自棄になったみたいです
身体が大きくカリスマ性も持ちかねていた西郷どんですが
元々の性格は真面目で神経が細かく、気配り型の性格だったみたいです
その反面、大久保さんは図太い神経の持ち主だったのですね
政治家としてはやはり、大久保さんの方が適していたということですよね~
ということで、続きます