放浪日 2016年5月2日
『えっつ?徳島にドイツ人捕虜収容所があったの?』
『てか、日本ってドイツと戦争してたの?』
『捕虜っていうことは、日本が勝っていたの?』
おっさんになってからの徳島旅を続けていたあもんは鳴門市でそんな疑問を並べていた
徳島を歩いている時に様々なローカルマップを手に入れたあもんは
鳴門市の坂東という地区にドイツ人捕虜収容所があったことを知ったのだ
日本とドイツが戦争をしていたのは、第一次世界大戦の時期
学校の日本史学習の中で『時間が無いので流しま~す』と言われがちなこの時期
あもんが学んだ日本史では明治維新を学んだ次には第二次世界大戦となっており
その多くは終戦にまつわる歴史、つまり、日本が戦争の被害にあったという歴史だけを学んだに過ぎなかった
しかし、日本の敗戦に至る歴史は必ずあって、それまでに戦争を続けていた理由はきっとある
どの先生も教えてくれなかったから、本で独学するしかないのだが
教わらなかった歴史の痕跡が残っているのなら、ぜひその地に立って感じたいと思った
ここでは細やかながらもドイツ人捕虜収容所跡地として開放されていた
日独戦争は圧倒的な兵力を持って臨んだ日本軍にドイツ軍が降伏するかたちで、3カ月もしないうちに終結
その結果、日本は4600人以上のドイツ兵捕虜を受け入れることになったそうです
なんとも綺麗な蓮の池です
ドイツ兵捕虜はこの景色を眺めながら暮らしていたのでしょうか
当時の日本には、捕虜となって辱めを受けるくらいなら「自決」するのが望ましいと考える風潮が根強くありました
しかし収容所所長の松江氏「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り扱いたい」という意志がありました
やって来たドイツ兵たちに、松江氏はこう語り掛けます
「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ……」
これは?収容所?
いえいえい、一般家屋のようです
これは自然破壊からの自然への回帰住宅ではありませんか!
見る見るうちに自然の一部へと帰ってきています
芸術的なベンチもありました
ドイツ好みなのでしょうかね
赤十字ゆかりの地でもあります
日本政府は、これを機にドイツの科学技術を国内に導入しようと、あらゆる分野についてドイツ兵から指導を受けるよう各収容所に指示していいました
経済・政治学から、ウイスキー、ビール醸造、ソーセージやパンの製法、楽器演奏の指導まで、ドイツ兵捕虜の中には各分野の専門家がいたそうです
板東俘虜収容所内にも、パン工場が建てられ、共同農場ではトマトや赤ビート、キャベツなど、それまで栽培されていなかった野菜の栽培指導が行われた
「独式牧場」と名付けられた牧場では、ドイツ兵捕虜の指導により、牛乳の生産量がそれまでの5倍増しになるという成果が上がったみたいです
え?なんで?
まさか、坂東捕虜収容所だからか!w
坂東さん、何してる?w
詳しくは後ほど、、