私は浜松駅から、聖隷三方原までバスに乗ります。
今日のバスの中の悲しい出来事💦
バスが停留所に停まると、慌ただしく運転手さんが、座席の方へと早足で来られました。
優先席のシートをたたまれたので「車椅子のお客様が乗るんだな」と思っていました。
するとなかなかバスのステップが出ない。なにかお手伝い出来ないか?と思っているとやっと出ました。バスを遅れさせられない、ステップは出ないで大変だったと思います。
運転手さんが車椅子の方に駆け寄りバスに搭乗して来ると、車椅子の方がスマホでなにやら電話をしている。運転手さんが、車椅子が動かない様に安全ベルトを絞め終わると、私は当然あの言葉が車椅子の方から出るだろうと思っていましたが、スマホをしたままで、会釈さえしない。
運転手さんが足早に運転席に戻り運転を再開。
3つほど停留所を越えた辺りで車椅子の方が降りるボタンを押されました。運転手さんはまたステップをだして車椅子を下ろそうとしています。ところが、車椅子の方はスマホをシュンシュンしながら、なにもおっしゃらない。更に運転手さんがバスの外で「ありがとうございました」と言われましたが、知らぬ顔で車椅子に乗って去っていきました。喋れないなら致し方ないかも知れませんが、ちゃんと話されてました。
私はこの様な光景は、本当に悲しくなります。
「ありがとう」の一言もない。みっともなく、哀れのなにものでもない。
車椅子の姿だからでは無いですよ。
その「心根が」です。
私も母が生きている時に、「その心根を正しなさい」とよく喧嘩をしました。
母は聞く耳を持ちませんでしたし、命が消える最期まで誤りを正せませんでした。
私はハンデが有る、無しに関わらず困っておられる方がいらしたら、お手伝いをします。
これは、子供達にも小さい時から「なにか困って、お手伝いを求めている方をみたら手伝って下さい」と言って聞かせてきました。
朝起きたら、歯を磨き顔を洗うように当たり前にそうしてねと、教えてきました。
ですからきっとしてくれていると思います。
そして、どなたかに助けを頂いた時は、必ずお礼を述べなさいとも教えて来ましたから、そうしてくれていると思います。
母は、重度障害で他人様にお世話になる事が多々ありましたが「障害者に親切にして当たり前や」と人の情けの有り難さがわからなかったのです。
私はそのような母の態度が腹立たしく、情けなく、またそのようにしか生きられない母が哀れでした。
困った人に手を差し伸べるのは当たり前。
そして差し伸べられた「優しい手」と「真心」に感謝を述べるのもまた当たり前と考えています。
それは相手がサービス業等の職業であっても。ですから私はレジの方、トイレ掃除の方、ありとあらゆる方に「ありがとう」は忘れないです。
それは自分が他人から哀れな人に思われない為です。
「どうぞ」。「ありがとう」。は人間レベルの問題で、障害が有ろうが無かろうが関係ありません。
人間なら当たり前です。
人は障害があるから馬鹿にされるのではありません。行いが哀れだから馬鹿にされるのです。
私は母と生きた年月でそれを学びました。
「ありがとう」を言うのに1秒も掛からない。
ありがとうは人を幸せに導く不変の道理です。
