子どもたちがまだ小さい頃

公園で遊んでいるのを

ボーッと眺めながら

「早く帰りたいな」

と考えている時間は苦痛でした。

 

 

 

おもちゃ売り場に引っかかって

「今日は買わないよ」

と言いながら

子どもの気が済むまで

ジッと見守っている時間は苦痛でした。

 

 

 

うちの子は体が大きくて

夫も不在だったため

抱えて強制連行が出来なかったんですね。

 

 

 

だから

本人が自主的に「帰る」と言うのを

説得の努力はしつつも

ジッと待つしかありませんでした。

 

 

 

当時はスマホもなかったし

私も気を紛らわせるものも無く

 

 

 

待っている間は

「無になる」

しかなかったように思います。

 

 

 

「早くしてくれないかな」

「この時間無駄だよな」

などと思えば

余計に辛くなるから。

 

 

 

不登校も

早く回復したらいいな

早く学校に行けるようになったらいいな

早く元の生活に戻れるといいな

 

 

 

そういった願望は

そうなるまで

子どもをジッと見張り続けないといけないし

なかなかそうはならないから

気持ちも体力も削られていきます。

 

 

 

待っている時間って

もの凄く苦痛で

長く感じて

疲れるんですよね。

 

 

 

バイト中に

「あと5時間もあるのか…」

と気付いた時も

めっちゃ時間が長く感じて

疲れますよね。

そんなことってないですか?

 

 

 

一方で

何かに夢中になっている時は

あっという間に時間が過ぎていきます。

 

 

 

「今私は子どもが○○になることを期待している」

「こうなる時を待っている」

 

 

 

そこに気付いたら

子どもを見張る目を

何か自分が夢中になれることにちょっとずらして

 

 

 

ジッと待っている辛い時間を

好きなことを一生懸命やる時間に

変えてみたらいいと思うのです。

 

 

 

子どもも見張られているのは気持ちの良いものじゃないし

母親が推し活などを始めて

自分から注意がそれて

口うるさくなくなったし

なんだか生き生きと楽しそうにしていて

良いんじゃない?

と言う子の話も聞きます。

 

 

 

自分の生活を彩るもの

気持ちが上がるもの

夢中になれるもの

 

 

 

そういったものがいくつかあると

毎日が楽しくなります。

 

 

 

私は気持ちが落ち込んだ時や

なんだかモヤモヤする時は

お菓子やパンを焼いたりします。

カヌレ

 

 

角食パン

 

 

 

部屋に花を飾ったり

スモークツリー

 

 

 

アクセサリーを作ったりするのも好きです。

スワロフスキーとパールとビーズ刺繍のピアス

 

 

 

ハーキマーダイヤモンドのピアス

 

 

 

気分転換になるし

感覚に意識を向けている時は

余計なことを考えずに済むので

マインドフルネス効果もあると思っています。

 

 

 

人が変わるのを待つ時間を

自分が楽しむ時間に

変えてみませんか?

 

 

 

その方がずっと楽しいですよ。

不登校に限らず

人間関係の問題も

恋愛でも

仕事でも

お金のことでも

 

 

 

その人が何をどう思いこんでいるのか

 

 

 

苦しさも楽しさも決まってきます。

 

 

 

セルフイメージ

つまり自己認識、自分への思い込みがどういったものかで

付き合う人を選ぶ時も

人の言動がどう見えるかも

愛を受け取れるか、愛を渡せるかも

どれくらい貢献できるかも

入ってくる金額も

出ていくお金も

違ってきます。

 

 

 

人は目の前の物をそのまま見ることが出来なくて

自分の思考、マインドを通してしか見ることが出来ません。

 

 

 

目の前のぬいぐるみを

多くの人は「可愛い」と思って見るでしょうが

埃とダニを吸い寄せる物として見る人もいます。

(私です)

 

 

 

この世は地獄だと思い込む人にとっては地獄だし

この世は天国だと思い込んでいる人にとっては天国だし

 

 

 

神社に行けば開運すると思い込んでいる人は

良いことがあったら「神社に行ったおかげだ!」と思うだろうし

 

 

 

神社みたいなとこは人の欲が集まる場所だから

近づきたくもないし

神社なんか行かなくても良いことは起きるし

良いことがあったらそのまま「やったー嬉しいな!」

と喜べばいいじゃんと思っている人間もいます。

(私です)

 

 

 

子どもの頃から

「お前はダメだ」

と親から言われ続けたら

そりゃ信じてしまうだろうと思うし

 

 

 

子どもの頃から

「あなたは宝物」

と親から言われ続けたら

なんか知らんけど私は大切にされる存在なんだろうなと

思い込むでしょう。

 

 

 

子どもの頃

父親が言った

「貧乏はだめだ」

と言った言葉が耳に残っていて

自然とお金がない状況を回避して生きていている人もいるし

(私です)

 

 

 

母親が言った

「登校拒否する子はIQが高いんだって!」

という言葉で

「私はダメ人間だ」

という思い込みを書き換えた子どももいます。

(私です)

 

 

 

あなたが見ている世界は

あなたが何を信じるか

何をどう思いこむかで決まります。

 

 

 

あなたの思考は

外側からやってきたものの集まりで

言ってしまえば

他人の思考の寄せ集めです。

だからあなたじゃない。

 

 

 

あなたの感情は

その思考の排泄物のようなもの

だから飲み込まれたり溺れたりしている場合じゃない。

 

 

 

「私はこう思う」も

「私は今とても苦しい」も


「今私はこう思いこんでいるんだな」


自分の思考や感情と

ちょっと距離を置いて見ると

きっと少し楽になると思います。

 

 

 

その思い込みは

変化していくし

書き換えることも可能だから。

 

 

不登校で厄介なのは

学校に行けない本人よりも

変わっていく価値観について行けない

大人たちなのだと思っています。

 

 

 

2020年末ごろから

「風の時代」と言われるようになりましたが

 

 

 

「占星術の言うことでしょ?」

 

 

 

と切り捨てるのも良いけれど

物質社会から、情報社会へと変化しているのは

体感でもわかりますよね。

 

 

 

特にインターネットの普及で

ネットがなかった時代にはなかった職業が出来て

ありえなかったことが可能になって

可能性はどんどん広がっています。

 

 

 

うちの子が2年間の不登校の後

通信制の高校に入学したのは2019年。

 

 

 

2020年にコロナが流行っても

全く影響ありませんでした。

学校に通わなくても勉強できた。

最初からネットで授業を受ける学校だったから。

 

 

 

その頃、上の子は大学生で

私立高校の校内予備校のチューターと

個別指導塾の講師のアルバイトをかけもちでしていました。

 

 

 

私立高校も

塾も

大学も

オンラインで授業を進める体制に切り替えるのが

めちゃめちゃ早かった。

 

 

 

上の子はすぐに

オンラインで大学の講義を受けた後

オンラインでアルバイトをする生活になりました。

 

 

 

私も娘の部屋のネット環境を整えるために

少し協力が必要でした。

通信速度を上げるために

モデムやルーター、LAN配線を見直す必要がありました。

 

 

 

大学では

生徒より年配の先生の方がネットの使い方を知らなくて

生徒が先生にチャットツールの使い方を教えるなんてことが起きていたり

デジタルネイティブの子どもたちの方が

私や先生よりずっと詳しかった。

 

 

 

新しいものがどんどん生まれる世界。

子どもたちが、最先端を走っていて

大人たちは、頑張ってついて行かないと

置いて行かれるのです。

 

 

 

私たち大人は

古い価値観を引きずったままですが

もう子供たちの世界では

通用しなくなっています。

 

 

 

老いては子に従えと言うけれど

今を生きているのは子どもたちなので

私は子どもたちの感覚の方を大切にしたいのです。

 

 

 

不登校は

学校に行きたくない子どもと

子どもを学校に行かせたい親との闘い。

 

 

 

学校に行かないで勉強する方法はいくらでもあるし

子どもの人生は子どものものなのだから

どんな風に生きてもいいはずなのですよね。

 

 

 

子どもたちの無限の可能性を

古い価値観と

狭い視界しか持たない大人たちが

潰すようなことがあっちゃいけないと思うのです。

 

 

 

今、不登校の子ってどれくらいいるのかな?

と思って

「不登校の」まで入れたら

 

 

 

「不登校の親の特徴」

がトップに出てきました。

 

 

 

それだけ不登校の原因が親にあるのでは?

と考える人が多いのかもしれません。

 

 

 

が、私は思います。

 

 

 

かんけーねーわ。

 



一番上に出てきたサイトを読み進めていくと

過保護だとか

過干渉だとか

心配症だとか

良くある親の特徴ばかりが出てきます。

 

 

 

「私もそうじゃないかな?」

「私が原因なら大変だ!」

と、不安をあおってあおって

最後に商品を買わせる仕組みですが

 

 

 

「不登校を解決する」ために

教材やら講習会やらを買って

子どもがほんとに行く気になるのかは疑問です。

 

 

 

大人たちのコントロールに屈服して

行くようになるのかもしれませんけど。

 

 

 

元不登校児本人としては

 

 

 

ほっといて

干渉しないで

好きにさせて

 



が本音。

そしてこの本音の奥には

「私をひとりの人間として尊重してほしい」

があります。

 

 

 

私が学校に行かないから

お母さん、不安なんでしょう?

だけどその不安は

お母さんの課題だよ。

 

 

 

お母さんの不安を

私で解消しようとしないで?

 

 

 

自分の不安くらい

自分で解消できるようになって?

 

 

 

自分の機嫌くらい

自分で取れるようになって?

 

 

 

と子どもの私は思います。

 

 

 

私が学校に行こうが行くまいが

お母さんには関係ないの。

 

 

 

私の人生は私のもので

私は自分で失敗しながら

自分の人生を作り上げていくの。

 

 

 

だから失敗することも

躓くことも

立ち止まることも

休憩することも

 

 

私には必要なんだよ。

 

 

 

そこはお母さんの立ち入る場所じゃないの。

 

 

 

勉強するのは構わないけど

勉強はして欲しいけど

私をコントロールするためなら

やめてよね、迷惑だから。

 

 

 

と、私なら思います。

これぞ過保護で過干渉。

 

 

 

子どもの心配をするより

自分の心配をした方がいいです。

広告を読み漁ってる場合ではないです。

 

 

 

子どもの人生は子どものもの

あなたの人生はあなたのもの

 

 

 

あなたは自分の人生を

自分で作って

自分の足で歩けているでしょうか。

 

 

 

自分の目で見て

自分の頭で考えて

自分の責任で選択できているでしょうか

 

 

 

不登校の子は

すでにこれが出来ている子なんです。

 

 

 

今は不安でいっぱいかもしれないし

混乱しているかもしれないけど

しようとしている子なんです。

立派ですよ。

 

 

 

ちなみに2022年度の

全国小中学校の不登校児童生徒数は

約24万5000人ですね。

 

 

 

不登校の子どもが増えるのは問題ではないです。

問題は

学校に行かなくても大丈夫な環境を

大人たちが作ってやれてないこと。

 

 

 

あなたが幸せな人生を送るための道や方法は

いくらでもあるから大丈夫だと

自分の思うように生きてごらんと

子どもに言ってやれる大人が少ないことなんじゃないかな。

 

 

エーリッヒ・フロムの

「愛するということ」という本を

数年ぶりにパラパラとめくってみて

 

 

内容をほとんど忘れていることにびっくりしましたw

(付箋まで貼ってあるのに!)

 

 

 

日本人が「LOVE」の意味で「愛」という言葉を使いだしたのは

英語が日本に入って来てからのようですね。

(違っていたら教えてくださいね)

 

 

 

それまでは

LOVEに似た感情は

「情」「色」「恋」というような言葉で表されていたみたいですね。

 

 

 

だから私たち日本人は

「愛」というものが何なのか

「自分を愛する」「人を愛する」

ということがどういったことなのか

いまいちわかっていないのかもしれません。

 

 

 

というか

誰にも教えてもらってないし

真剣に考える機会もなかったかもしれません。

 

 

 

キリスト教の「ストルゲー」「エロス」「フィーリア」「アガペー」の4つの愛もキリスト教に興味がなければそうそう触れることもないだろうし

 

 

 

仏教の「慈悲」とは一体どんなものであるのかは、仏教を学ぼうとしないとなかなか考える機会もないでしょう。

 

 

 

カップルのゴタゴタを見ていても

愛と恋と欲とエゴがごちゃごちゃになってるなー

と思うし

 

 

 

親が子どもを愛しているつもりで言う言葉も

親のエゴを押し付けているだけだった。

ということもあるかもしれません。

 

 

 

愛するって

優しいことでも

甘いものでも

簡単なことでも

ないのだと思います。

 

 

 

だけど愛は

誰もが持っているもの。

 

 

 

私たち親は

子どもを無条件に愛せているだろうか。

 

 

 

ちょっと考えただけでも

子どもが学校に行かないだけで不安になったり

言う事を聞かないと腹を立てたり

全然無条件に愛せてない自分に気付きます。

 

 

 

自分は無条件に愛されたいと願っているくせにね。

 

 

 

そう、誰もが無条件に愛されたがっている。

どんな私でも愛してほしいと思っている。

 

 

 

だって

人は愛されていなかったら死んでしまうほど

弱い生き物なんだもの。

 

 

 

生まれたばかりの赤ん坊は

自分じゃ何にも出来ませんでした。

周囲の大人たちの愛がなければ

体を温めることも

移動することも

栄養を補給することも出来なかった。

 

 

 

だから

愛されないことへの恐れは

本能的に強く強く持っているのだと思います。

もう、生存本能として。

 

 

 

だからこそ

子どもたちには

「私は充分に愛されている」

と感じながら育ってもらいたいのです。

 

 

 

そして母親は

我が子を無条件に愛するということを

本能的にわかっているはずなのです。

何にも出来ない赤ん坊を

命がけで守ってきたんだもの。

それは愛でしかなかったのです。

 

 

 

幼少期

「私は親から愛されていなかった気がする」

と思う人は

 

 

 

愛するって

愛されるってどういうことか

いまいちわからないかもしれません。

 

 

 

だけど

愛は本能的に誰でも持っているもので

たくさんもらってきた人と

そうでなかった人と

差があるわけじゃない。

 

 

 

表現方法を知っているか知らないかの差はあるだろうし

自分の思う愛と

相手の思う愛とのすれ違いもあるかもしれない。

 

 

「自分が愛で満たされていない」と感じているから

「持ってないものあげられないよ!」と思う

ということもあるのかもしれない。

 

 

 

「私は子どもを愛せているだろうか?」

と考えた時

「愛せていないかもしれない…」

と思っても、落ち込まないで。

 

 

 

あなたの愛が足りないわけじゃないんです。

「愛されていないかもしれない」

という恐れがどこかにあるから

無い袖は振れないと思い込んでいるというだけ。

 

 

 

だからまず

自分で自分を愛する必要があるんです。

自分の心の器を

自分の愛でいっぱいに満たす必要があるのです。

 

 

 

よく「シャンパンタワーの法則」なんて言いますが

自分の器を満たして満たして

溢れた分を相手に注ぐ。

子どもに対しても同じです。

 

 

 

無条件に愛する能力は

本能的に持っている。

 

 

 

だけどそれと同じくらいに

愛されてないと死んでしまうという恐怖も

本能的に持っているから

 

 

 

私たちは混乱するのです。

 

 

 

無条件に

充分に愛されていると感じることが

人間には必要です。

 

 

 

だけどその愛をくれる誰かをつかまえるのはなかなか難しい。

みんな自分のことで精一杯だからね。

 

 

 

でも一人いるんですよ

あなたを無条件に愛せる人が。

 

 

 

それはあなたしかいない。

 

 

 

だからまず

自分のことを

無条件に愛することからはじめないといけない。

 

 

 

じゃないと

人のことも愛せないから。

 

 

 

とりあえず

どんな自分にも

OKを出すことから

始めてみませんか?