暑さに耐え、夏を生き延びることが最優先する、熱風の季節となっています。みなさま、ご自愛ください。

 

 おととい、7月21日(日)の朝日新聞の歌壇・俳壇から。

                                          

 まず、俳句。

 

 「蛍籠(ほたるかご)めく終電車並び過ぐ」。「一匹の世界となりし金魚かな」。「万緑の一村すでに生家なし」。

 

 「出目金の溺れかけてはまた浮かぶ」。この句の『評』に、「何とも泳ぎが下手そうな。あっぷあっぷと魚なのに。」とあります。

 

 「木下闇一片の闇黒揚羽」。「木下闇」は、「このしたやみ」とも「こしたやみ」とも読むようです。木の下の日陰のこと。入れ子細工のような、おもしろい作品です。

 

 「わたくしはこのままでいいねぢればな」。「ねぢればな」とは、他の草花とねじれた花のことでしょうか?不自由に見えても今となっては受け入れるという諦観。すばらしい。

 

 (追記:22日の読売の俳壇に「捩花」がありました。「ネジバナ」とは、ウィキペディアに、「花色は通常桃色で、小さな花を多数細長い花茎に密着させるようにつけるが、その花が花茎の周りに螺旋状に並んで咲く「ねじれた花序」が和名の由来である。「ネジレバナ」、「ネジリバナ」、「ねじり草(そう)」とも呼ばれる事もある。」とあります。)

 

 「角出さずじつと一日蝸牛(かたつむり)」。この句は10句目ですが、めずらしく『評』(通常は、1席から3席までに付けられます。)がついて、「そんな日もたまにはいいもの。人間もまた。」とあります。

 

 「夏座敷母の柩と眠りけり」。短歌修行中のわたくし、「柩の母と」ではいけないのか、どう違うのか疑問があります。わたくしも、昨年12月、斎場に泊まり通夜をしました。

 

 「隠沼(かくれぬ)を見つけて浮かぶ梅雨の月」。俳句らしいひねった作品です。この句の『評』に、「隠沼は「草などにおおわれて外から見えない沼」(広辞苑)。」とあります。このことで、物知りの選者も、時々は辞書で確認されるのだと思われます。

 

 

 次に、短歌

 

 「手のひらに骨の形が残るほど夜中にさする媼の背中」。この歌の作者は、横浜市の太田克宏さん。「被曝牛飼い続ける人の五千日、野太き声が今日も地を這う」。この歌の作者は、常連の福島市の美原凍子さん。

 

 「ニューヨークの蕎麦屋に寄りてザル啜り青き瞳と音出し競う」。この歌の作者は、常連のアメリカの大竹博さん。青き瞳は、お連れの身内の方か、出会いの客か。

 

 「法隆寺金堂壁画の阿弥陀仏に少し似ている大坂なおみ」。わたくし、大坂なおみさんと渋野日向子さんの大ファンです。

 

 「尺を越す岩名(いわな)釣り上げ手に取れば古武士のような面構えなり」。「「ウチに来て、あなたの家にはもう行けない」二分の距離を病む友の言う」。「赤子抱いた目礼の母乗つてきてエレベーターに寝息が満ちる」。この歌の作者は、甲府市の村田一広さん。

 

 「美しい角持つ鹿が「麗」の字と教え給いし恩師旅立つ」。この歌の作者は、常連の五所川原市の戸沢大二郎さん。

 

 「年取ると見知らぬ我がしゃしゃり出て恥かくことが多くなりけり」。この歌の作者は、常連の三郷市の木村義煕さん。今回、もう一首別の選者に選出されています。

 この歌の趣旨が、「よけいなことをいう」ということなら、こうやって、ブログを書くことはいくらかの予防になるかもしれません。

 

 今回は、上のようでした。