遅くなりました。7月22日(月)の読売新聞の歌壇・俳壇から。

 

 まず、俳句。

 

 「今日も藁敷き足す西瓜の蔓の先」。この句の『評』に、「西瓜(すいか)畑を見に行くと、今日も新しい蔓(つる)が伸びている。土の上の蔓の先に藁を敷いてやる。そんな動作が極めて正確に描写されていて、感心した。「蔓の先」がいい。」とあります。

 今日新しく伸びた蔓の下ではなく、先日からある蔓の先の西瓜の玉がだんだん大きくなるので、今日も藁を足すのではないでしょうか?

 

 「週一の朝刊買ひに麦わら帽」。この句の『評』に、「週に一回だけ、月曜日の朝刊を買いに行く。暑くても雨が降っても(読売新聞の俳壇のため?)。今朝は見事入選! おめでとう。」とあります。

 

 「われに似ぬ子はすでに亡し夏つばめ」。この句の作者は、八王子市の男性名の方。字面からはご自分に似たお子様はおられるかもしれませんが、雰囲気としては、もうお子様はおられないように感じられます。子を先に亡くした親の老後はことのほか寂しく、心細いことでしょう。

 

 「捩花や地を出で空へねぢり立つ」。この句の『評』に、「日差しに耐えて野に咲く可憐な捩花(ねじばな)がまるで天を目指す竜のようではないか。俳句は描写力が物をいうと改めて知らされる。」とあります。

 

 「払う手にまたよじ登り来るや蟻」。この句の『評』に、「そうそう、払ったと思ったらいつの間にか、手の裏あたりを上って来ている。握り飯などを頬張っていればなおのことだ。下五の中途の切れ字も作者の驚きをよく伝える。」とあります。下五の切れとは、「来るや/蟻」のことですね。

 

 「蠢くや見捨てられたる蜥蜴の尾」。この句の『評』に、「消えた蜥蜴(とかげ)に重きをおく作り方が普通だが、ここでは残された尻尾の方が主役。いくら蠢(うごめ)いても持ち主は戻ってこない。そこが哀れ。」とあります。

 

 「飛行機で入道雲の悩み聞く」。(この句の『評』は転記省略)。「寝転んでダニと目が合う古畳」。この句の『評』に、「俳句では、入道雲もダニも、人と横並び。二句を並べると、大小の対比が面白い。どちらも「聞く」「合う」と断定しているのがいい。」とあります。

 

 

 「プールより上がる無駄なき身体かな」。「羽根たたみそこね天道虫転ぶ」。この句の作者は、湖南市の滝井正之さん。「鶏の喉(のんど)ごくりと蚯蚓(みみず)呑む」。

 

 「すやすやと夏座布団の赤子かな」。涼しい風の通る大きなお家の畳の部屋でしょうね。

 

 

 次に短歌。

 

 「にわか雨おろしたての下駄ふところに裸足で下校(かえ)った遠き夏の日」。この歌の作者は、郡山市の成田富美子さん。「たばこ屋のかなえちやん家(ち)のおばあちやんから疎開の朝に餞別いただく」。この歌の作者は、高槻市の佐々木文子さん。二首目は戦中の学童疎開、一首目も戦前・戦中でしょう。

 

 「カラオケ喫茶閉づるをわびて八十の女店主はどら焼き配る」。この歌の作者は、富山市の女性名の方。「月曜日半音下がる「ただいま」に半音上げて母の「おかえり」」。「忘れない煙草葉出荷のその足で亡父がミシンを買ってくれた日」。

 

 「外国(とつくに)の若衆(わけいし)達の手をかりて裏の河川に橋のかかりたり」。この歌の作者は、茨城県の鉾田市の女性名の方。「若衆(わけいし)」という読みは、小三治さんの落語で聴いたことがありました。

 

 「雑談も人生会議のやうなもの西瓜切り分けつつ「この家どうする?」」。この歌の作者は、町田市の女性名の方。

 

 「中国語も日本語もわかるシャンシャンは四川省にて七歳迎ふ」。「シャンシャン」は、上の動物園で生まれ中国に戻されたパンダの雌。

 

 「右肺へ直腸の癌転移する棒高跳びの選手のごとく」。「暑さにも「危険な」がつく世となりて鶏頭の花どす黒く咲く」。「曲がりたるきゅうり一本なす一本ちょうど良きかな夫との夕餉」。

 

 「嫁ぎ来てうから七人睦びしをひとりとなりて九十路を生く」。この歌の作者は、天草市の野口久仁子さん。「うから」とは、ネットの辞書に、「何かに気を取られて不注意でいるさま。ぼんやりと。うっかり。うかり。」とありました。「睦(むつ)び」=「睦ぶ」は、「睦む」と同じ。

 

 今回は、上のようでした。