『ローリング・ストーンズがオリジナル曲を作るようになったのはビートルズの天才2人のおかげ!?
「君たち向きかもしれない」と提供された楽曲を聴いたストーンズが受けた衝撃』
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今から61年前の9月10日、ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカトニーはリハーサルスタジオにやってきた。
その理由は、ローリング・ストーンズに楽曲提供するためだ。
そのときはまだ未完成だった曲を聴いたストーンズのメンバーが受けた大きな刺激とは……。
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* デビューが決まっても複雑だったストーンズ
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1963年6月7日に発売されたローリング・ストーンズのデビュー・シングル『カム・オン』は、彼らのアイドルの一人、チャック・ベリーのカヴァーだった。
この曲に選んだのはバンドではなく、マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムである。
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同年3月にロンドンのクラブで、R&Bを演奏していたストーンズを見たアンドリューは、すぐに楽屋に行ってマネージャーをやりたいと申し出た。
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前年10月にデビューしたビートルズのスタッフとして、パブリシストを担当していたアンドリューはまだ19歳だったが、口が達者でメディアの利用にかけては天才的なものを持っていた。
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アンドリューは出逢ってすぐにストーンズのメンバーたちをスタジオに連れて行くと、キャッチーだと判断した『カム・オン』をレコーディングする。
そしてそのテープを聴かせて大手レコード会社のデッカとの契約を取り付けると、5月には正式にバンドのマネージャーに就任した。
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だが、『カム・オン』がデビュー曲に決まっても、ストーンズのメンバーはやや複雑な気持ちだった。
キース・リチャーズがこんな回想をしている。
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「あれはただレコード用にプレイした曲だ。
二度と聴きたいとは思わないね。
アンドリューのアイデアだった。
強力なシングルを放てば会社はアルバムを出してくれるだろうってね。当時アルバムを出すのは、限られた人間だけに与えられる名誉だったのさ」
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R&Bとブルースに心粋する音楽マニアのストーンズではあったが、メンバーたちはレコードを出すことも、ロンドン以外で演奏することも、現実問題としてまだ考えたことがなかった。
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大学生だったミック・ジャガーが政府から奨学金をもらい、そのお金でブライアン・ジョーンズとキース・リチャーズが一緒に住んでいたアパートの家賃を払っていたのだ。
キースはこんな感想も述べている。
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「最初のシングルを出したときの、あの後悔と落胆が入り混じった何とも言えない気持ち、あれはいまだによく覚えているなぁ。
と言うのも、当時のパターンとしてはレコード1枚出したら最後、それからきっかり2年で必ずバンドは寿命を迎えたものだったんだ。
当時はレコードを出すってことが凄まじい意味を持っていたんだよ」
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アンドリューはストーンズをビートルズのような人気者にすべく、マネージャーとして全力を尽くした。
ラジオやテレビへの出演のほか、メンバーのアイドルの一人だったボ・ディドリーのオープニング・アクトの仕事も取ってきた。
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しかし、『カム・オン』は期待したほどには、ヒットチャートを上昇しなかった。
発売から3か月が過ぎた1963年9月には何とか21位まできていたが、勢いが止まってそれ以上期待はできなかった。
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ちょうどその時1位に躍り出たのが、ビートルズの『シー・ラブズ・ユー』だった。
前週1位の座にいたビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタスの『バッド・トゥ・ミー』もまた、ビートルズのレノン&マッカートニーが提供した作品だった。
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* 1時間もかけずに仕上がった『彼氏になりたい』(I Wanna Be Your Man)
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UKチャートにおける当時のビートルズの勢いは、周囲を圧倒するものがあった。
ローリング・ストーンズの次のシングルについて、アンドリューは作戦の変更を思いついた可能性が高い。
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というのも、レコーディングを終えていたアラン・トゥーサンの『フォーチュン・テラー』が、マージービーツのデビュー・シングルのB面でもカヴァーされて先に発売されたからだ。
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それを知ってアンドリューは、『フォーチュン・テラー』のお蔵入りを決めた。
と同時に、勢いのあるビートルズにストーンズのための曲を提供してもらう、そんなアイデアが閃いたのだろう。
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ジョンとポールにストーンズへの楽曲提供を頼んだアンドリューが、リハ―サル・スタジオに二人を連れてきたのは1963年9月10日のことだ。
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「君たち向きかもしれない」と言って、まだ未完成だった曲をストーンズのメンバーに聴かせたジョンとポールは、気に入ってもらったので提供することにした。
それが『彼氏になりたい』(I Wanna Be Your Man)である。
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二人はスタジオの隅にあった椅子に腰掛けて、1時間もかけずにその曲を仕上げてしまった。
その様子を見ていたミックとキースは、ジョンとポールの作曲能力に大きな刺激を受けた。
そう、この日のことがきっかけとなって、ストーンズもオリジナル曲を作るようになったのだ。
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こうしてアンドリューが描いた筋書き通りにことが進み、レノン&マッカートニーの書いた『彼氏になりたい』は、11月14日にストーンズのセカンド・シングルとしてヒット・チャートの41位に初登場、12月19日には最高12位まで上昇した。
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年が明けた1964年元日。
音楽シーンに多大な影響を及ぼすことになる『トップ・オブ・ザ・ポップス』が英BBCでスタート。
独自の音楽チャートを作成し、その中から注目のミュージシャンを紹介するテレビ番組だ。
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栄えある第1回のトップバッターを飾ったのは、ローリング・ストーンズだった。披露されたのは『彼氏になりたい』。
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翌々日からは、念願だったアルバムのレコーディングに取りかかった。
「シングル曲を寄せ集めたアルバムではなく、一曲一曲を自分たちの手で作り、納得できるいいものにしたい」というのが、メンバーたち共通の想いだった。
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ファースト・アルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』が4月に発売されると、ザ・ビートルズの『ウィズ・ザ・ビートルズ』に代わって12週連続で1位を記録する大ヒットになった。
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内容はR&Bとブルースのカヴァーが中心で、1曲だけジャガー&リチャーズの書き下ろしたオリジナルのバラード『テル・ミー』が入っていた。
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ビートルズにとっても『彼氏になりたい』は、ドラムのリンゴ・スターが歌うレパートリーとして定着した。
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文/佐藤剛 
編集/TAP the POP 
サムネイル/左:『シングル・ボックス Vol. 1<1963-1965>』(UNIVERSAL MUSIC、2004年5月21日発売)。
右:『ザ・ビートルズ1962年~1966年』(UNIVERSAL MUSIC、1998年3月11日発売)
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参考文献
「キース・リチャーズ、かく語りき」(音楽専科社)
「THE ROLLING STONES」 (rockin’on BOOKS) 
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集英社オンライン
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(集英社オンライン)
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ビートルズも大好きでLP・EP・SPなど当時全部買っていた。
CDの時代になってからはLPは何も買わなくなった。
コレクターの趣味はないから。
古いものを高価で買う気はない。
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当時LP一枚が2000円くらいだったので、ストーンズは魅力的ではなく買わなかった。
唯一買ったのは2枚組ベスト盤だけ。
CDの時代になってからのストーンズの新譜は買っている。
歳をとったらストーンズのけだるさもよく感じるようになった。
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当時買ったLPたちは今でも小屋裏で眠っている。
いつの日か聴くことがあるのか。
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追伸:
庭を散策して、西と東のビオトープ(メダカ・ヌマエビ・スジエビ・タニシ・カワニナ)の水面の落ち葉をトングで挟んで庭に撒いた。
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元錦鯉池(改良メダカ・ヌマエビ)に水足しをした。
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追伸2:
今日、風呂に入りながら聴いたアルバムは、
「 LEGENDARY BROADWAY MUSICALS (2016)(ON THE TOWN)」(8~9)
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追伸3:
2011年米・アラブ首長国連邦・ポーランド映画「ウェイバック 脱出6500km」を観た。
<1940年、第二次世界大戦真っ只中のソ連。
ポーランド人兵士ヤヌシュ・ヴィスチェック(ジム・スタージェス)は無実のスパイ容疑で逮捕され、シベリアの強制労働収容所へ連行された。
収容所では劣悪な環境に加え飢えや重労働に苦しめられ、囚人たちは次々と命を落としていく。
そんな中、脱出ルートがあることを知ったヤヌシュは、仲間6人( アレクサンドル・ポトチェアン、セバスチャン・アーツェンドウスキ、 グスタフ・スカルスガルド、ドラゴス・ブクル、コリン・ファレル、シアーシャ・ローナン)と共に脱出を決意。
拷問を受けて不利な証言をしてしまった妻を罪悪感から救うため、自由を求めて過酷な旅に挑む。>
1978年生まれイングランド出身の俳優ジム・スタージェス主演の実話を基にした実録冒険ドラマ映画だね。
1950年生まれニュージャージー州出身の俳優エド・ハリスも出ている。
1994年生まれニューヨーク州出身の女優シアーシャ・ローナンも出ている。
1976年生まれアイルランド出身の俳優コリン・ファレルも出ている。
1963年生まれイングランド出身の俳優マーク・ストロングも出ている。
監督は、「マスター・アンド・コマンダー」「グリーン・カード」などのピーター・ウィアー。
スラボミール・ラウイッツによる手記「脱出記 シベリアからインドまで歩いた男たち」を映画化。
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