❑坂口祐三郎の手元に最初に渡された、赤影の台本。



実は最初、赤影の登場の際の決め台詞は『飛騨の赤影だ!』と書かれていた。


この台詞で、坂口は何度か撮影を試みたものの、もう1つしっくりいかないと監督に言われ、彼自身が登場の決め台詞を考案。



そして採用された『赤影』の有名な台詞『赤影参上!』が生まれたのだ。


それに合わせて、ポーズも考案。



信じられない話であるが、赤影の『仮面』、『赤影参上の台詞』、『赤影参上のポーズ』この3つを坂口自身が作成、考案したのだ。



このエピソードを坂口から聞いたことで、いつも彼が私に言っていた『赤影というキャラクターは自分で考え、試行錯誤して自らが造り上げたんだ』と語った意味が良く分かった。



台本通りには進まず、一筋縄では出来なかった赤影の撮影。



常に坂口は、監督と二人現場で、苦労賛嘆の上、作品を引き上げる案を絞り出していたとも話していた。



それだけに、坂口は、赤影に特別な想いを抱き、当初は、何処まで自分が赤影になれきれるのか、自問自答しながら撮影に挑み続けたとも話していた。



彼にとって、赤影は『もう一人の自分』とも言える存在だったに違いない。



私にとっても、また多くの人にとっても、坂口の演じた赤影は、色濃く残る思い出の1つとして心に刻まれていると思う。







『赤影の地位』が、このように日本で確立されたのは、偶然の成功ではなく、彼の努力の賜物して必然的な結果だったのだと思う。

何故ならこれ程の大型番組の予算を獲得したにも関わらず赤影の詳細なキャラクター設定はほぼ後付け感が強い。

元々東映は1966年公開の映画『ワタリ』をカラーテレビ企画として準備、関西テレビも受け入れを内々に固めてそのまま映画からカラーテレビへと展開する流れの途中に公開前の『ワタリ』が原作者とトラブルを招き映画公開は認めるもののテレビ化は決裂する。


大慌ての東映は忍者漫画の旗手、横山光輝にオファー。

但しテレビ化前提企画の為カラーテレビのプロモーション告知の必ず色を前に出す制限迄突き付けられ時間不足の中赤影はテレビ化へ向けて走り出す。


やはり先行して大ヒットした『ウルトラマン』ほどの作り込みに及ば無いものの創意工夫で関西テレビの上層部が映像完全度の高い試写を観て日曜よる7時00分の『ウルトラマン』に放送時間をぶつける程の期待値を持つ事になる。


これはやはり赤影に命を拭き込んだ制作関係者の情熱が奇跡に近い状況を呼び寄せキャストの最後に決まった坂口祐三郎が赤影そのままの勧善懲悪の存在だったからに他ならないからだと私は信じている。








 ■赤影公式第1話■


 







 











▓その彼が私に託した、様々な約束を、赤影を鑑賞しながら思う1日だった。