NOLA プランテーションの強烈な光と影 | オレゴンの微風

オレゴンの微風

在米49年、木々のざわめきで知るオレゴンの微風の中に小さな幸せを感じる今日この頃。特別養子で授かった愛しい娘の事や、結婚生活36年でこの世を去ってしまったオットとの日々、それにチワワのむ〜ちゃんを交え、徒然なるままに書くブログです。

皆さんはプランテーションと言うと、どんな場所を思い浮かべますか?

 

私は、子供の頃に読んだり映画で見た『風と共に去りぬ』の世界かなあ。

広大な土地に豪邸、美しく着飾った女性達、、、

 

そう、まさにネットからお借りしたこの写真の感じです。

 

今回のニューオルリンズ旅行で、『プランテーションツアー』に行こうと誘われて、最初は一番人気のオークアレー・プランテーションに行くつもりでした。誘ってくださった方達も、ここに行きたかったのでは無いかと思います。

 

オークアレーの外観はこんな感じで、正に私の思う映画から抜け出た世界です。

 

 贅が尽くされた内装は当時の農園主の生活を垣間見る事ができますし、ここには美味しいものが有りそうなレストランも有ります。

スタッフさん達の衣装もとても素敵らしいそうです。

 

でもね〜、、、

 

色々調べる内に、私は オークアレーでは無く、ウィットニープランテーションに行きたいと思う様になりました。

 

何故ならそこはプランテーションの華美な表のイメージとチョットだけ悲しい裏のイメージを伝える場所では無く、奴隷にされた人々の視点、実際に子供の頃奴隷だった人たちの記憶を反映してプランテーションを紹介してくれる場所だったからです。

 

インディゴ、コメ、サトウキビを栽培し、プランテーションの所有者を裕福にする為に何世代にも渡りこの地域で奴隷にされていた人々の歴史が語られているのです。

 

私が一人でもこのツアーに参加したいと言ったので、皆んなでこちらに来る事になっちゃいました〜。

 

ツアーの最初に、入場券代わりにこのカードとワイヤレスガイドのセットを渡されました。

 

このカードは実際にこのプランテーションで育った子達の銅像の写真です。

 

カードの裏にはその子達の生の声が記述されていました。

 

ハンナ・ケリー:平和が宣言されたとき、私は10歳でご主人はルー・ダウンワードでした。奴隷時代、私は特に仕事はせず、子供たちの世話をしただけでした。母は紡績、織物、染料を作っていました。漆で赤、ブラックジャックから、茶色の染料を作りました... 男の子達は畑で働き、綿、トウモロコシ、ジャガイモを育てました。私たちは肉、パン、野菜を食べ、日曜日や休日にはたまにビスケットを食べました。

 

メリー・ハリス:奴隷時代の事は覚えていますとも。私は11歳になった大きな女の子でしたから。私は大きな団扇で白人の食事中にハエを寄せ付けない様に扇いでました。大変な作業では無かったけれど、夕食時にテーブルに長く座ってられると、腕が疲れちゃいました。私は火を起こしたり、たきぎを持って来たり、灰を片付けたりしました。

 

ジュリア・ウッドリッジ:私たちは最初、クレオールのバウグリスに属してました。とっても意地悪な男でした。彼が死んだ後、私たちは競売にかけられました。兄や姉達はそれぞれ売られましたが、私は若すぎたので母と一緒に売られました。

 

ツアーの最初に行ったのは、南北戦争後に建てられたアンティオック・バプテスト教会です。

近隣地区唯一のアフリカ系アメリカ人教会で、23年前にここに寄付されたものだそうです。

 

ホイットニーの子供たちの一人が私達を迎えてくれ、祭壇近くには何人もの子供達がいました。

 

この敷地内には、こんなボロをまとった子供達の像があちこちに有るのです。

 

これはホイットニー プランテーションで奴隷にされたすべての人々に捧げられた記念碑で名誉の壁と呼ばれています。彼らの名前とその情報 (起源、年齢、スキル)がここに刻まれています。

 

この邸宅はビッグ ハウスと呼ばれ、ルイジアナで最も初期に建てられ、現存するスペイン・ クレオール建築の中でも保存状態の良い優れた例のひとつだそうです。

 

現在、内部は改装中なので一部しか見る事が出来ませんでしたが、ここには家事・育児・雑用などをする奴隷も住んでいたそうです。


ビックハウスの裏側には、一対の2階建ての建物があり、その1階は倉庫、2階は鳩小屋です。

ここでは鳩が食糧だった様です。滝汗滝汗滝汗

 

そのお隣の建物はビッグハウスの別館で、ルイジアナ州で最も古い独立型キッチンです。

 

キッチンの建物の前には、美味しそうな大きなバナナの木がありました。

 

ここは監督の家です。

そして、こちらは鍛冶屋さん。

木の間から中を覗いてみましたが、何も見えませんでした。

 

そしてこれが牢屋。只のコンテナを仕切って作ったみたいな建物です。

 

こちらが奴隷小屋、、、南北戦争前、このプランテーションには22の奴隷小屋があったそうですが、オリジナルは既に取り壊され、現在あるものは近隣の奴隷小屋を持って来た物だそうです。

 

広い敷地をノンビリとみて回っていたのですが、ここに来て、私は息が詰まりました。

写真も撮れませんでした。なので、この写真はネットからお借りした物です。

 

ジャーマンコースト蜂起と呼ばれる、米国史上最大の奴隷反乱が1811年に起こりましたが、まともな武器も持たない彼らが殺した白人は 2 人、そしてプランテーション ハウス 、砂糖工場、作物をいくらか燃やしただけでした。40〜45人の奴隷がその間に殺され、さらに44人が裁判にかけられ殺されました。

 

それも、見せしめのために通常の銃殺や絞首刑では無く、斬首した後にこうして晒し首にされたのです。

 

当時の様子が鮮明に思い浮かび、私たちは足早にここを去、お隣のセクションのベンチでしばし動く事も出来ませんでした。

 

奴隷制度から解放された時を思う『ハレルヤの像』です。

 

奴隷制度の恐怖

 

ここはフィールド オブ エンジェルスでヨハネ教区で 3 歳の誕生日を迎える前に亡くなった 2,200 人の奴隷の子供たちに捧げられた記念碑です。

 

ここにはまた、子供達がどのように殴打されたり、親から引き離されたりしたかについて、子供自身が言った事も刻まれていました。

 

中央に置かれたこの像は、赤ちゃん達を天国に運ぶ黒い天使だそうです。

 

これは、ルイジアナ州で奴隷にされた 107,000 人に捧げられた奴隷記念館です。


これは、鎖を返すと言うオブジェです。

 

そして、これは私の気のせいかもしれません、、、

 

でも、、、

 

どうしても気になった事が有ったのです。

 

ビッグハウスの前の樫の並木の一本の枝の付け根のあたり、、、

 

木の皮がすり減って赤茶色になっているところ、、、

 

そのまま忘れる事が出来ず、、、

 

とても気になって写真を撮りました。


私たち3人は日本から来た日本人で、結婚した相手もみんなアメリカ人です。

が、3人はそれぞれ違った人種と結婚したので、子供達の人種も半分違います。

 

沢山お喋りをした私たちでしたが、、、

このツアーに関しては余り語る事はありませんでした。

きっと、それぞれ思う所があり過ぎて、語れなかったのだと思います。

 

心が重かったですが、ウィットニー・プランテーションに行かれて本当に良かったです。

 

最後に、あるガイドさんの言葉だそうですが:誰もがホイットニーに来る事は出来ませんが、この歴史の一部を学ぶことは出来ます。若い人たちがこれを見て、これを知って、何が起こったのかを理解することが重要です。奴隷制度はビジネスで、人種差別は道具でした。人は商品だったのです。この真実を知らせるのがこのウィットニー・プランテーションです。

 

もっと興味のある方は、こちらのウェブサイトをご覧下さいね。

https://www.whitneyplantation.org