弟の妻の一周忌 | 病気治療備忘録と時々バイク

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令和3年12月 S状結腸がん腹腔鏡手術
令和4年3月 ストーマ閉鎖手術
令和4年5月 縦隔嚢胞胸腔鏡手術(ダヴィンチ使用)

弟が二人いますが二歳年下の弟の妻は同じく私の二歳下で、誕生日は私と同じ日です。


三年前に腰痛が酷いと言いながら病院嫌いの義理の妹は我慢をしていて、弟が病院での診察を勧めても大丈夫と言って、なかなか病院に行がなかったそうです。


発熱と下血が続き、ようやく病院で診てもらったところ、診察の結果はすぐに大きい病院での精密検査を勧められました。

血液検査やCT検査などで卵巣に悪性腫瘍が見ったので、がんセンターで手術することになりました。


手術で腫瘍は取ったもののリンパ節にも転移が見つかり、ステージ3と診断され、抗がん剤治療も始まりました。


やはり抗がん剤治療は辛かったそうですが、明るい性格の弟の妻は家族に心配かけないようにいつも通り明るくふるまい頑張っていたそうです。


その時は三人の子どもたちは高校生と小学生でした。


自分と家族のために辛い抗がん剤治療も頑張っていましたが、担当医から抗がん剤治療について、新薬の提案があったみたいで「この治療方法なら、あと5年は生存できる」というようなことを言われたようで、本人としては完治に向けて頑張っているのに、まるで治らないと言われたようで、あの医師は信頼できないと思うようになりました。


それからは、ネットでがんの完治に向けて色々と調べるようになり、身体に良いもの摂取すれば良くなるだとか、免疫力を高めればがん細胞が無くなると言って、ネットの治療法ばかりを試すようになり、病院には行かなくなったそうです。


段々と体重も減り、弟がどんなに病院に連れて行こうとしても、本人の意思は固かったようです。


発症から三年後には、とうとう自力で歩くことも出来なくなり、病院に入院しましたが栄養も点滴のみで話すことも出来なくなりました。


コロナの感染拡大により、入院中の面会も家族だけで制限され、私は面会することができませんでした。


入院して一週間が過ぎると、病院からはこれ以上の治療はできないと言われました。


このまま亡くなるまで入院するか、自宅にもどって家族で介護するかとなり、退院のため、弟と私と私の妻で病院に迎えに行きました。


病院に着くと私の妻が病室まで迎えに行き、病院の玄関で待っていると、話すことも、起き上がることも、歩くこともできない弟の妻がベッドで運ばれてきました。


久しぶりに見た弟の妻は、本人の面影もなく、一瞬誰だかわからないくらい痩せていました。


私の妻は入院時に一緒に病院に行っているので、見ても驚かないでねと私に言っていたのを思い出しました。


話すこともできなくなっていたので、言葉の代わりに目で何かを訴えているように見えました。

私の妻は「家に帰ろうね」と言った時にわずかですが頷いたように見えました。


病院の玄関でベッドから三人で弟のワゴン車に乗せましたが、多分体重は30キロもなかったと思います。


私の妻と弟の妻は凄く仲が良かったので、ほぼ毎日、弟の家に泊まって、最後はまで介護することになりました。


病院を退院してから一週間の午前4時ごろに息を引き取りました。


お祭り好きで人当たりも良く、友人や知り合いがたくさんいたので多くの人に見送られながら旅立ちました。


治療を辞めずにいたらどうなっていたのかとも思いますが、あくまでも本人が決めることなのでどうしようもありません。


父子家庭となった弟ですが三人の子どもたちと頑張っています。


その5ヶ月後にまさか自分の大腸がんが見つかるとは思いもしませんでした。


以前のブログにも書きましたが今は経過観察中です。