CHARLES SPENCER Jr. … 父の名を与えられた青年【1】 | 日本と芸能事が大好きな Ameyuje のブログ

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米合衆国領土グアム島と仏領ポリネシアのタヒチ島とボラボラ島しか訪れた他国無し。比較対象が少ないのに「僕に一番合うのは日本」と思う。反日国に侮辱されても毅然とした態度をとらない現在の母国には「いやんなっちゃうな~」と立腹するけど、やっぱり日本が大好き。

 2006年の4月1日(土曜日)に当時の私のサイトに書いていた文書データが出てきた。以下は、こちらのブログでもシリーズを移し変えた「Chaplin and His Shadow」の番外編であり、 私がチャールズ・スペンサー・チャップリン ジュニアに感謝をささげるために書いた文書だ。

 

 


 

 本邦初のチャップリン国際シンポジウムが2006年3月25日と26日の両日、京都の元・立誠小学校を会場として開催された。

 

 当地では同時に「チャップリンの日本~チャップリン秘書・高野虎市遺品展」が2006年3月25日~4月2日の期間開催されており、チャップリンファンとしては小躍りしたくなるほどに興味深い写真や手紙類が展示されていた。

 

Son and Father in the 1952 film Limelight


 嬉しいことにそれらをまとめた形で、日本チャップリン協会発行の写真集「チャップリンの日本」が会場内のSHOPで3,000円で販売されており、記憶力の悪い私には有難い事この上なく、当然ながら1冊求めて帰ったのだが、興味深い写真群の中で一層に私の興味をそそった写真がP-25とP-39とP-93にある。
 

 P-25の写真というのは1929年頃にアル・ジョルスン Al Jolson(最初のトーキー映画 The Jazz Singer (1927)の主演俳優 )とチャーリーの「街の灯 City Lights (1931)」の撮影セット内におけるツーショットであり、P-39の写真というのは1927年にチャーリーと秘書の高野虎市のツーショットであり、P-93の写真というのは(おそらく1932年の訪日時に撮影したのだろう)歌舞伎座の楽屋における初世中村吉右衛門とチャーリーのツーショットであり、3枚の写真ともにチャーリーは別々のスーツ姿で写っている。

 

 ここではそのスーツはどうでもいいことで、問題はチャーリーがはいている靴であり、ほぼ5年の間隔が開いている上記いずれの写真でも、チャーリーは同じデザインの靴を履いているのだ。

 

 初世中村吉右衛門との写真では、なんと吉右衛門の楽屋内、畳の上までその靴で入り込んで微笑んで写っている。(吉右衛門の表情が固まって見えるのは「いくら世界の喜劇王とはいえ、神聖な畳の上に土足で上がるとは怪しからん!」…と怒ってるのでしょうか?にやり


 私がそんな同じ靴を履いたチャーリーの写真に魅かれた、・・・というか「ああ、これか!」と旧知に出会ったような嬉しさを覚えたのは何故か?その理由を以下に綴ってみよう。

 


 

 「三人の日本人の話」・・・これは、Charles Spencer Chaplin Jr.(5 May 1925 - 20 March 1968)とN. and M. Rau 共著の「わが父チャップリン MY FATHER, CHARLIE CHAPLIN(1960)」という本に出てくる9番目くらいの章の題名である。


 チャールズ・ジュニアの文章中には、上記の写真集「チャップリンの日本」にもふんだんに出現する日本人、あるいは日系アメリカ人の話題が少なからず出てくるのだが、日本のチャップリンファンには結構知られている「高野虎市(コーノ、Kono)」という名前は一切出てこない。

 

 私は、初めて「わが父チャップリン」を読んだときに、当然「三人の日本人の話」には高野さんの話が出てくるものだと思っていたのだが、残念なことに三人の日本人の名前は「使用人頭のフランク、運転手のケイ、コックのジョージ」と紹介されており、それどころか、この書籍の中にコーノという名前は一度たりとも出現しないのだ。私は不思議だった。


 「まてよ、もしかしたらチャールズ・ジュニア達はコーノさんを違う名前で呼んでいたのかもしれない」とも思った。たとえば、フランクさん。使用人頭というくらいだから、コーノさんがもしかしたらフランクと呼ばれていたのだろうか?・・・とか、もしかしたら運転手のケイというのがコーノさんのことで、 Kono の頭文字 K からとった名で家族からは呼ばれていたのか?・・・とか勘ぐったりもしたのだが、チャールズ・ジュニアの文章を最後まで読んで判ったことは、やっぱり皆、高野さんとは別人だということだった。


 三人の日本人の話の章には、たとえば、使用人たちをスケッチした次のような記述が見られる。

 父は家の主権者で、家庭の運営は日本人の召使たちにまかせきりで、使用人頭はフランクといって、執事兼従者兼支配人で、なんでもやりこなす部類の人間でした。いかり肩で正直者でした。いつも柔和な顔をしていて、よろめくほどの仕事の山を背負っても、苦もなくやり抜く魔法使いでした。少しなまりのある英語を上手に使っていました。


 運転手のケイは全体的にもっと日本人型で典型的なポーカー・フェイスをして元気良く勇ましい歩き方をしていました(中略)ケイは英語を話しましたが、あまり上手ではなく、フランクと違って無口でした
 

 コックのジョージは全然英語は駄目で、片言より喋れませんでした。しかし料理の事となると全く抒情詩です。恐らく料理にかけてはどんな種類、どんな外国料理でも、この町では彼の右に出るものは無いくらいでした。小さな痩せた男で50か55歳くらいで、ケイがいつもユニホーム姿だったように、ジョージも白エプロンと高いコック帽以外の姿は見たことがありません(中略)生き生きとした目が心の中のユーモアできらめいて、本当に日本の彫刻から抜け出たようで、父のお気に入りでした。  ・・・云々。

 


 

 「私の man Friday」とまでチャーリーから評され、絶大なる信頼を得ていたコーノこと高野虎市がチャップリンの秘書を辞めた理由、いや、辞めたというよりはチャップリンから解雇されたようなものなのだが、それにはコーノがチャーリーの3番目の妻ポーレット・ゴダードと衝突したことが絡んでいる。

 

 ポーレットの無駄遣いについて諫言する高野と、「妻の私が使用人に指図される筋合いはない」とチャーリーに訴えるポーレット。結果、チャーリーはポーレット側に立ち、「チャップリンはわしよりも女をとったんだ…」とその後ずぅっと高野虎市の心に口惜しさとなって残った結末を迎える。


 ともかくも、ポーレットが出現するまでの長い間チャップリンに仕え、サミットドライブのチャップリン邸におけるチャップリンのしきたりを彼と共にに築きあげてきた高野虎市。

 

 ミルドレッド・ハリスもリリータ・マクマレイもそんなチャップリン邸のしきたりからすれば「妻という名の侵入者」にすぎなかったが、初めて侵入者の立場を超えて半征服者になりえたのがポーレットだった。平素は質素を旨とするチャップリン家に「贅沢」という風を吹き込んだのもポーレットだったし、日常の暮らしの中でチャーリーと対等に渡り合い、時には彼を叱るという立場に立ちえた最初の妻も彼女だった。


 そのあたりまでの歴史を年表風に書くと、

 1916年 秋に高野はチャップリンの運転手となる。
     その後、まもなく秘書になった。
 1920年 最初の離婚訴訟(原告ミルドレッド・ハリス)で
     高野はチャーリーと共に逃避行。
 1924年 11月にチャーリーがリタ・グレイと2度目の結婚
 1926年 この頃、チャップリン家の使用人17人全員が日本人だった。
     「まるで日本人の中で暮らしているようだった」(リタ・グレイ談)
 1927年 8月に2度目の離婚
 1931年 ~32年にかけてチャーリーは世界旅行を果たす。
     高野もチャーリーと行動を共にする。32年には初来日。
 1932年 7月、プロデューサーのジョセフ・M・シェンク氏主催のヨット会において
     ハル・ローチと契約していたコーラスガールの一人ポーレットと出会う
 1933年 チャーリーとポーレットの交際が深まる。3月、ポーレットの為にヨット
     パナシア号を購入して改造。夏のほとんどをそこで過ごす。
 1934年 5月、高野が秘書の仕事を辞し、チャップリン家を去る。


・・・という具合になる。

 


 

 「わが父チャップリン」に再度戻って、14番目の章を見てみよう。すると、そこには「三足の古風な靴」という題名がついている。


 この章にはチャーリーがお気に入りだったという、ある靴に関する興味深いエピソードが書かれていて、そのほかにも3番目の妻ポーレット・ゴダード Paulette Goddard のことや、チャップリン邸に使用人として勤めていた日本人の様子も描かれていて、この本を読み終わってからも、私の記憶にずぅ~っと残るくらい印象深かった章である。


 私は以前にも書いたが、この書籍を一読した後、文章を書いたチャールズ・ジュニアという人がとても素直で正直な方だという印象を強く受け、そして好きになった。

 

 この素直な人物が描く「素顔のチャップリン」は、喜劇王チャップリンが自分自身を振り返って描いた「自伝のチャップリン」と少し違っており、私の想像の中のチャーリーはその違いのおかげでより人間らしくなれた。「よくぞチャールズ・ジュニアはこのような書籍を書き残してくれたことだ」と、現在の私よりもずっと若い40代前半という年齢で惜しくも亡くなった彼に対して感謝の気持ちで一杯になるのだ。

 

【2へつづく】

 

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