第五十一代平城(へいぜい)天皇は、平安時代の初期の天皇です。

和風諡号は日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと).。

御父は桓武天皇、御母は藤原の乙弁漏(おとむろ)、桓武天皇擁立に尽力した藤原良継の娘。また歌人で有名な在原業平は孫です。

宝亀五年(774年)桓武天皇の第一皇子として誕生。

御名は小殿(おて)、後の安殿(あて)親王。

在位、延歴二十五年(806年)~大同四年(809年)。

怨霊渦巻く平安京と言われた平安時代は、前例のない事件で井上(いがみ)皇后が廃后となり、その息子の他戸(おさべ)皇太子が廃され、新たに皇太子となった山部(やまべ)親王が桓武天皇になられた後、平安遷都を行って始まりました。

しかし、この間に長岡京遷都があり、長岡京造官吏の藤原種継暗殺事件に関与したとして皇太子の早良親王(桓武天皇の同母弟)が逮捕され流刑先に移送中に憤死しています。

早良親王の廃太子にともなって皇太子になったのが安殿親王であり、井上親子や早良親王が怨霊となって行ったとされる身の回りの不幸や天変地異がある中で育ちました。元来病弱だったため、早良親王の霊に取り付かれていると言われる中成長していったのです。そのためか父帝崩御後の即位後も体調が優れず、転地療養を試みるも変化がなく、在位三年で同母弟の皇太弟に譲位(嵯峨天皇)し太上天皇となられました。

しかしその短い在位の間には、勘解由使を廃止して新たに六道観察使を置いています。観察使は東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・九州とその周辺の西海道)に設置された参議と並ぶ重要な官職で、観察使による地方行政の観察は厳正に行われました。

太上天皇となられてから愛着のある平城京へ移られると、嵯峨天皇との兄弟の意思疎通が難しくなった上、太上天皇が設置した観察使を嵯峨天皇が廃止し参議を復活する詔を発せられ四年で終了させられるようなことが起きました。

そして健康を取り戻した太上天皇は「平安京より遷都すべからず」との桓武天皇の勅があるにもかかわらず「平安京を廃止して旧都平城京へ遷都する」という詔勅を発せられ嵯峨天皇を驚かせます。これは後宮にいた藤原薬子やその兄の藤原仲成の重祚を狙った甘言のためといわれ二朝対立状態となりました。この対立が薬子の変に発展していきます(大同五年/810年)。平城上皇は自ら東国に赴き挙兵しようとしましたが、嵯峨天皇に阻止を命じられた坂上田村麻呂の軍勢に捕らえられ帰京し出家しました。また藤原仲成は処刑されましたが、これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰された稀な事例でこれ以降、保元元年(1156年)に起きた保元の乱まで三四六年間死刑執行が行われませんでした。なお薬子は服毒自殺を遂げています。

またこの事件で、嵯峨天皇の皇太子となられていた平城上皇の第三皇子高岳皇子は廃太子となり、嵯峨天皇の異母弟である大伴親王が皇太子となりました(淳和天皇)。

弘仁十五年(824年)崩御。

旧都平城京への愛着に因み平城天皇と号されました。また、奈良の帝とも呼ばれ、後に後奈良天皇は平城天皇から追号されています。

 

崩御の後、既に譲位されていた嵯峨上皇の要望で、時の天皇淳和帝は薬子の変の関係者の赦免の勅令を出されています。

平城天皇の崩御で最後の幕が引かれた薬子の変は、若過ぎる太上天皇と同母弟である天皇の二つの存在が生み出した初の対立ともいえます。これは、明治になって大日本帝国憲法と一緒に皇室典範を作成した際、譲位があることで生まれる混乱を避ける事例の一つとなったことでしょう。これ以前にも譲位後の上皇により政変が起き政情が不安定になったことがありましたし、平安時代には藤原氏や上皇の思惑で譲位を強制された天皇の例がいくつもあり、それを要因に大きな争いになることもありました。鎌倉・室町時代になると上皇や幕府の圧力での譲位の例があり、朝廷が二つに分かれ混乱の一因となっていきます。一方江戸時代になると、譲位することを圧力に変えるという例も起きるようになりました。皇室典範の条項について協議する場合、こうした歴史を知っておくことはとても重要だと思います。

陵は揚梅陵。奈良県奈良市佐紀町にあります。

 

参照:「宮中祭祀」
「旧皇族が語る天皇の日本史」
「天皇を知りたい」
「天皇のすべて」
「歴代天皇で読む日本の正史」


当時の時代背景が理解しやすくなる「怨霊になった天皇」
 

『天皇の国史』

 

 

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