本日は明治四十五年(1912)に明治天皇が崩御されてから112年の祭日(命日)です。

明治天皇祭は、宮中祭祀、先帝前三代例祭〈小祭〉のことです。現在上皇陛下の先帝である昭和天皇、その前三代の大正天皇、明治天皇、孝明天皇が、先帝前三代例祭として行われています。

宮中祭祀、先帝前三代例祭〈小祭〉は、天皇の崩御日当日に、御追慕の思召しで皇霊殿及び山陵で行われます。皇霊殿は、皇居内にあり、天皇陛下の御先祖にあられる御歴代の天皇、またその后妃、皇子女などの御霊をお祀りされています。この御霊は、京都の御所の清涼殿の北側にあった御黒戸と呼ばれるところに仏式でお祀りされ女官が奉仕していたもので「黒戸」とは女房言葉で仏壇を意味します。

「宮中祭祀」によれば、明治天皇祭は天皇陛下御親祭のもと斎行され、皇后陛下、皇太子殿下同妃両殿下が御拝礼され、また伏見桃山陵に勅使を参向させて奉弊なさいます。また皇族の方々は、終了したとの連絡があるまで御所にてお慎みになられるそうです。現在であれば、上皇陛下、上皇后陛下は御所でお慎みになられ、皇嗣殿下同妃殿下が御拝礼されるということでしょう。

第百二十二代明治天皇は幕末から明治の天皇です。徳川慶喜の大政奉還を許し王政復古の大号令を発し、京都から東京への奠都(てんと)を行い、欧風文化への受容に務め大日本国憲法の発布や国会の開催など立憲君主国としての日本創出に献身されています。

御父は孝明天皇、御母は権大納言中山忠能の娘、中山庸子。

御名は睦仁。

称号は祐宮(さちのみや)。

嘉永五年九月二二日(1852年11月3日)誕生。孝明天皇の第二皇子で、父帝の崩御をうけて十六歳で践祚(即位)しました。これは数え年で、満年齢では十四歳の時です。江戸中期以降の天皇は短命が多く、後継天皇の年齢も若くならざるをえませんでしたが、徳川家安泰の時ならそれも問題ありませんでした。しかし時は尊皇攘夷吹き荒れている最中の幕末です。天皇の役割が国政を左右する重大な時期でしたから、悲しみと不安から、睡眠もままならず食も進まなかったといいます。

和歌を愛した明治天皇は、父帝の死を悼む御製を四十にもおよぶほど詠んだそうですが、そのうちの三首は、天皇になられた責任の重みを託したものだそうです。(残念ながらこれらの歌は散逸し、具体的な内容が不明とのこと。)

明治天皇が生涯で詠んだ御製は十万首近くあり、活字になっているものだけで数千あります。そんなうちの初めての一首は満五歳の時のこちらです。

月見れば雁がとんでゐる
水のなかにもうつるなりけり

これは生母中山慶子の死後、その所持品の中から発見されたもので、詠まれた日付が母の手書きで書き入れられていたそうです。

明治天皇は毎日作った歌を父帝に見せてなおしてもらっており、この直接指導が歌人明治天皇の基礎となったといわれています。

明治天皇の公式記録『明治天皇紀』は全十三巻一万ページ以上あり、年代順に一日単位で明治天皇の行動や周辺でなにが起きたかが事細かに書かれており、明治天皇の本を書かれている著者はこれを参考にするそうで、ドナルド・キーン氏も読まれたとのこと。

在位は慶応三年(1867年)~明治四十五年(1912年)。

慶応四年(一八六八年)一月三日、明治政府の官軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争が勃発し、政府軍の勝利に終わります。

その年の九月八日、元号を慶応から明治に改元し、一月一日に遡って明治としました。

 この年三月十四日には、五箇条の御誓文が渙発されていました。これは明治天皇が天地神明に誓約する形で公卿や諸侯に示した政府の基本方針です。昭和天皇は、終戦後に「新日本建設に関する詔勅」で引用されており、内容からしても政治家はもとより日本中で意識したい内容ですが、この五箇条の御誓文を忘れた現代日本人はあらゆる混乱を招いているのではないかと思います。

 

↓明治神宮の五箇条の御誓文のところには、「日本の民主主義の基本と、普遍的な理念」と書かれており、昭和天皇は、日本に民主主義はある!(西洋人に言われなくとも)とこれを引用したとも言われています。

 

明治天皇の御製と五箇条の御誓文を歌にした山口采希さんの 「五つ星きらめく~平和の約束~」

 

十月十三日には、東京奠都(てんと)を行っています。これは京が都のまま首都機能が東京に遷ったことをいいます。都を遷すことを遷都(せんと)といいます。その後変わらず現在まできていますから、つまり実は今現在日本には都が京都と東京二つあり、だからこそ「京の都である京都」と「東の都である東京」という名前となっています。こういう言葉をきちんとわかっていれば大阪都構想という言葉の選択が、政策以前におかしいことがわかります。

明治維新後の文明開化による社会変化の影響で教育を憂えるようになった明治天皇は、明治二三年十月三十日教育勅語を文相に自ら下賜されました。これは国民に語り掛ける形で守るべき十二の徳目が列挙されたもので、国民と共に天皇も守りたいと誓うもので君民一体の形を示したものでした。終戦までは日本中で学ばれたものでしたが、終戦後ウオーギルドインフォメーションプログラムの政策により、教育現場から消えてしまったものです。しかし、これは世界に絶賛されたもので、この教育勅語を機に始まった修身の教えを真似してアメリカでは道徳の教科書を作成し今も教えられています。日本のみこれを今も教えないことはもう止めたほうがいいのです。

 

教育勅語を楽しい歌にして覚えやすい「大切な宝物」山口采希 さんの歌
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明治天皇は孫である昭和天皇が非常に尊敬し、その御製を引用されることも多かった天皇です。贅沢を戒め建物の増築は楽をするためには望まず、軍服の新調よりも裏に継ぎはぎすることを選ぶ等、確かに昭和天皇に受け継がれていました。また同様に、民衆と同じにあろうとしたことなどがあります。

また、日本各地に巡幸をした初めての天皇が明治天皇でした。この巡幸により天皇は広く日本を知っていき、また国民も天皇を知っていったのです。また、海の日は、この御巡幸により誕生した日です。

 


明治の激動の時代、国外では植民地の嵐が吹き荒れる中、日清・日露戦争の勝利や日英同盟の締結など列強の一員への道を進み、台湾割譲や朝鮮併合、満州経営では列強の植民地政策とは異なるインフラの供給や教育の充実、産業を興す政策を進めアジアが一体となって欧米に対抗できるようになる強さを目指したのが明治天皇の時代でした。それにより現代に続く朝鮮半島や台湾の繁栄を導き出し、台湾の人々は今もそれを感謝しています。そういう歴史があったことを我々日本人は奢る必要はありませんが誇りにすべき天皇です。

激動の時代を物語るのがその勅語の多さです。『みことのり』で数えてみたら、637の勅書が出されていました。

明治四十五年(1912年)七月三十日崩御。六一歳(満五九歳)。

御陵は伏見桃山陵。京都市伏見区桃山町古城山にあります。


青山の帝国陸軍錬兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が行われ、その際にしつらえた葬場殿の跡地には聖徳記念絵画館が建てられました。ここには明治天皇御生誕から崩御までの絵を当時の画家が描かれた絵が飾られており圧巻です。この絵は小さいコピー写真が明治神宮に置かれているのでご覧になった方は多いと思います。

 

 

4年前は、明治神宮御鎮座百年の年でした。


明治神宮は国民が明治天皇の御神霊をお祀りしたいとの声で創建されたもので、昭建皇太后とともに祀られています。あの明治神宮の杜は計画的に作られたまだ百年ほどの森なのです。本日は明治天皇百十年祭が御社殿にて行われます。祭典で奉奏される「明治神宮大和舞」は明治神宮の数ある祭典の中で唯一神職が舞う神楽舞です。これは明治天皇が生涯で読まれた十万首にも及ぶ御製の中の代表的なものに作曲・振付をしたものです。

明治神宮大和舞


あさみどり澄みわたりたる大空の
廣きをおのが心ともがな

 


本日は、明治天皇に殉じられた乃木将軍が祀られた乃木神社でも明治天皇祭が行われる他、日本全国の明治天皇縁の神社で祭祀が行われます。

 

4年前と、3年前は、明治神宮御鎮座100年と、明治天皇110年祭が続きましたので、2年連続で天皇陛下は明治神宮に参拝されていらっしゃいます。また皇室の方々も参拝されてらっしゃいました。

 

 

また今年は昭憲皇太后の110年祭にて、やはり天皇陛下をはじめ皇室の方々が明治神宮を参拝されました。

 

明治神宮には、五箇条の御誓文と教育勅語がじゃばらの小さい栞になって置かれていて誰でも戴くことが出来ますし、明治天皇の御製の本などを購入することができます。


宝物殿には明治天皇縁の物が置かれています。また御歴代全ての天皇の肖像画が置かれており、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の肖像画は見事です。ただしこの肖像画以外は残念ながらちょっと酷いものが多いです。この肖像画家がどのように御歴代の天皇の絵を描かれたのか疑問に感じるところです。しかしながら、御歴代の肖像画を見ると、このように多くの天皇がいらしたということがその数において実感され圧倒されることと思います。

 

そして新しくできた明治神宮の博物館には、当時の馬車が置かれており、企画展が定期的に開催されています。

 

参照:「宮中祭祀」展転社
※祭日はこの本の日付によります。
 「天皇のすべて」Gakken
「天皇を知りたい」Gakken
「明治天皇を語る」ドナルド・キーン


最後に、明治天皇入れ替わり説について。皇室や天皇についてのバッシングと当時に必ずこの説が浮上しており、ここ最近の酷いバッシングにより、またこの説をネット上で色々見るようになりました。この説については天皇に興味を持ち始めた時すぐに知って驚愕したことです。しかし、これは事実ではありません。この説を初めて知ってからずっとそれが頭から離れずにいましたが、何年か天皇について調べているうちに、ある時明治天皇のある逸話を知って入れ替わりがないことを確信しました。考えてみなくても古代の天皇と違い明治天皇には多くの資料が残されていますから、そのようなことが実際に起きていれば多くの人が口にしていたことでしょう。

それにそもそも御所には御所言葉があって入れ替わりなどしたらすぐにわかってしまいます。また御所に働く大勢の人達の口、全てを封じることなどできはしなかったでしょう。また明治天皇は、御所で働く人を気づかい1年365日、一日24時間落ち着くことがなかったことが明治天皇の生活について書かれているものを読むとわかります。このような気づかいは生まれた時からそのように生活した人でなければ続けて行くことは不可能です。もし入れ替わりがあったとして、自我がとっくの昔に目覚めしかも御所と違う自由な生活を送ってきた人間が、そのような生活に我慢できるはずがありませんし、そのような気づかいを生涯続けることなどできなかったことだろうと思います。常人では計り知れない気づかいをされているのです。そしてそのような御方であるからこそ、明治天皇はそれこそ現人神のように崇められたのです。それこそ神のような人柄であったから、現人神のように思われそういうことを現実に側で知ってらっしゃった人々が、それを伝えまたその後も明治天皇を見習おうとした、それが昭和天皇であり、そうしたことを身近で教えられたでしょう上皇陛下です。そして、今上陛下がそうしたことを教えられていないはずがありません。

このような入れ替わり説が今も言われ多くの本が書かれているのは、日本人の多くが天皇・皇室について知らないがためにそこに付け込まれ広められているのだと思います。そもそも天皇や皇室は一般の人には通常目にすることのできない世界ですから、昔はそれで良かったのです。しかし戦後、日本人の良識以上に言論が自由となり、好き勝手なことを言う人々が出てきました。そして普通の人々が知らないことをいいことに、色んなことを語り書く人が出てきたのです。だからこそ私も惑わされました。このような時代になってしまったからには私達は基本的な天皇・皇室の知識をきちんと知らなくてはならないのです。海外のような開かれた王室のように皇室がなる必要はないと考えていますが、かといって無知のあまり誤解されたり、そこにつけいられてもいけないのです。そして多くの日本人がきちんと知れば、このようなたわいもない噂話は一笑の元に消えるでしょう。このような話を信じる前に皇室についてきちんと学び知ってほしいと思います。

なお、私が確信した逸話については、明治天皇について書かれたものを読めば出てきますので、ここには書きません。是非探究してください。

 

 

この唱歌動画の歌詞↓【明治の御代】

盛なるかな 明治の御代
教育の道を はげまされ
深山の奥の 村々までも
学校の設置 ゆきとどき
日に日に進む 人の智恵
祝へ祝へ 明治の御代


盛なるかな 明治の御代
殖産興業を 進められ
野山の産物 海のもの
人の手業にはた商業に
日に日に進む 国の富
祝へ祝へ 明治の御代


盛なるかな 明治の御代
陸海軍を ふるはせられ
日清の役に 又北清に
忠勇義侠の 名をあげて
今こそ世界の 日本国
祝へ祝へ 明治の御代
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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