本日は、香淳皇后の祭日です。

 

3年前のニュース

(2021/06/16)FNNプライムオンライン

天皇陛下の祖母にあたる香淳皇后の祭日命日の16日、天皇皇后両陛下や皇族方は「香淳皇后例祭の儀」に臨まれた。 皇居の宮中三殿では、陛下の祖母で、上皇陛下さまの母にあたる香淳皇后をしのぶ例祭の儀が行われ、両陛下は装束姿で拝礼され、秋篠宮皇嗣殿下同妃殿下ご夫妻や次女の佳子内親王殿下さまなど、皇族方も参列された。 一方、東京・八王子市にある武蔵陵墓地でも「山陵例祭の儀」が行われ、秋篠宮家の長女・眞子内親王殿下さまが皇族代表として参列された。 淡いグレーの参拝服姿の眞子内親王殿下さまは、香淳皇后の眠る陵墓へと進み、深く拝礼された。 眞子内親王殿下さまの皇居やお住まいの宮邸以外での公的な活動は、2021年1月、昭和天皇の祭日命日に武蔵陵墓地を参拝されて以来、およそ5カ月ぶり。

※敬語の訂正をしています。

 

二十年式年祭のニュース。

(2020/06/19)テレ東biz

やりとりの音声が聞こえない皇室映像。宮内庁担当記者が解説・再現する。 天皇陛下の祖母にあたる香淳皇后の20年式年祭に秋篠宮家の眞子内親王殿下さま佳子内親王殿下さまが参列された。 香淳皇后は眞子内親王殿下さま佳子内親王殿下さまにとって曽祖母にあたり、崩御された亡くなられたとき、眞子内親王殿下さまは8歳、佳子内親王殿下さまは5歳でした。眞子内親王殿下さま佳子内親王殿下さまはその後も、それぞれ大学を卒業した時や成人になった時などご自身の節目の時にこちらを訪れ、近況を報告されてきました。

※敬語の訂正をしています。

 

 

拝礼の時、一番深くお辞儀をしますが、一番深いお辞儀はほぼ90度となります。90度のお辞儀は慣れていないと意外ときつくて自分では深くお辞儀したつもりでも深くなかったり、背中が丸まっているだけだったりします。つまり、このお辞儀を見ると宮中三殿での祭礼への取り組みの姿勢までみえてきます。上記動画は全編となっているのでこうしたところがわかりやすいですが、メディアのニュースでは拝礼前後のお辞儀を使われていることがあり、切り取りニュースで印象操作がされていることもよくあることは頭に入れておいた方がいいかと思います。

 

武蔵野東陵は武蔵野陵の東側にあり、二つ並んだ御陵となっています。

 

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香淳皇后は昭和天皇の御后です。(以下宮内庁HPより)

 

香淳皇后は,明治36年3月6日,久邇宮邦彦(くにのみや くによし)王の第1女子として東京・麻布でご誕生になりました。御名を良子(ながこ)と称されました。
大正13年1月26日,当時の皇太子殿下(昭和天皇)とご結婚になりました。大正15年12月25日,大正天皇の崩御により昭和天皇が即位され,皇后となられました。
香淳皇后は,日本画・書道・歌道など多彩なご趣味をお持ちで,これらのお作品を基に,御画集・御歌集が刊行されたり,そのお作品展が催されたこともありました。
香淳皇后は,昭和64年1月7日,昭和天皇崩御に伴い皇太后となられ,天皇皇后両陛下をはじめ皇族方,ご親族方がたびたびお訪ねになるなか,在りし日の昭和天皇をお偲びになりながらの穏やかな日々をお過ごしでした。平成12年6月14日夜半から呼吸不全が生じ,適応加療が行われましたが,6月16日にいたりご容体が急変し,老衰のため同日午後4時46分,吹上大宮御所において崩御(御歳97)されました。香淳皇后と追号されました。

香淳皇后の大喪儀は,皇室の行事として,平成12年7月25日の斂葬の儀(豊島岡墓地内における葬場殿の儀,武蔵陵墓地内における陵所の儀)を中心として種々の儀式が行われました。陵名は武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)と定められました。


(御誄(おんるい))

殯宮移御後一日祭の儀(平成12年6月29日)
明仁謹んで
御母皇太后の御霊に申し上げます。
在りし日のお姿や明るいお声は今もよみがえって日夜心を離れず,思い出は尽きることがありません。
哀慕の情はいよいよ胸にせまるものがあります。
ここに,霊柩を殯宮にお遷しして,心からお祭り申し上げます。


追号奉告の儀(平成12年7月10日)
明仁謹んで
御母皇太后の御霊に申し上げます。
長き歳月,昭和天皇をお助けになり,温かく,香しくましました在りし日のお姿は今も深く心に残っております。
ここに,追号して香淳皇后と申し上げます。

 

斂葬の儀 葬場殿の儀(平成12年7月25日)
明仁謹んで
御母香淳皇后の御霊に申し上げます。
昭和天皇の崩御あそばされてより十一年,吹上大宮御所にお過ごしの日々が穏やかにして一日も長からんことを願い,お側近く過ごしてまいりましたが,この夏の始め,むなしく幽明界(ゆうめいさかい)を異にするにいたりました。
在りし日のお姿を偲びつつ,殿(しんでん)に,また殯宮(ひんきゅう)におまつり申し上げること四十日,ここに斂葬の日を迎え,葬列をととのえ,昭和天皇のお側にお送り申し上げます。
お慈しみの下にあった去りし日々を思い,寂寥(せきりょう)は深く,追慕の念は止まるところを知りません。誠に悲しみの極みであります。

 

・・・・・・・以上・・・・・・・

 

御誄を拝読したのは香淳皇后が初めてだったのですが、このとき上皇陛下の思いが表れた御言葉を感慨深く感じました。

 

昭和生まれの私にとって、当時の天皇陛下と皇后陛下は、畏れ多いことですがただ、おじいちゃんとおばあちゃんのように思えていました。実際昭和世代の私からすれば年代的にもそうしたご存在でしたし、当時そのように感じている子供、多かったのではないでしょうか。なぜなら天皇陛下と皇后陛下の意味がよくわかっていなかったからだと思います。せっかく昭和生まれだったのに一般参賀も行ったことがありませんでした。今思うと本当に惜しいことをしたと考えています。

 

だから、私は今の若い人たちには機会があるときには、こしたことをきちんと拝見し、接するべきではないかと薦めています。あとで、あの時きちんと接していたらという後悔がないようにです。私自身がこうしたことを知らず、せっかくの機会を逃していたと考えているからです。まあ、なかなか理解してもらえていないのですが・・・。

 

香淳皇后といえばニュースで拝見するお姿はいつもにこやかに微笑まれていたお姿だったのが印象として記憶に残っています。

 

また昭和天皇について知るようになってから、少しずつですが香淳皇后についても知るようになりましたが、その中でも印象的なのが非常時に自ら国民のための着物や包帯を御手縫いされていたことです。御手縫いで作るのが当たり前だった時代とはいえ、皇后陛下も自ら御手縫いされていたことにとても驚いたのでした。しかし、皇室について随分と知るようになった今では、これが当たり前の皇室のお姿なのだということがわかってきています。

 

そうしたことが、復刻版初等科修身の三年生の教科書にも書かれています。時代を感じさせる内容ですが、香淳皇后のお人柄が感じられる項目だと思います。

 

皇后陛下

皇后陛下は、たいそうおなさけ深く、国民をよりおいつくしみになります。

お小さい時から、たいそうおきまりよく、ごしっそにおくらしになりました。

おもちいになるものは、いつもだいじにお取りあつかいになり、そのせいとんも、ごじしんでなさいました。

関東に大じしんがあったときには、たくさんのお着物をおぬいになって、困っている者にお恵みになりました。

満州事変には、戦地の寒さをお思いになって、軍人たちに、まわたをたまわりました。戦場で、きずを受けた人たちに、ごじしんでお作りになった、ほうたいをたまわりました。

志那事変が起こってからは、いくたびとなく、陸海軍の病院へおでましになって、白衣の勇士をおなぐさめになりました。お庭にできた草花などを、おつかわしになったこともあります。また、戦地にある軍人のために、わざわざおあみになった、えりまきをたまわったこともあります。

私どもは、日本国民として、皇后陛下の御恵みを、しみじみと、ありがたく感じるものであります。

 

 

天皇の歴史をみるとそこに君主としての重圧と孤独を感じることが多いです。特に昭和天皇は、国史上最大の日本の危機を乗り超えられた天皇として、戦前はもとより、戦後の国の体制の変化との闘いからもその孤独感も重圧も強く感じられます。だからこそ、昭和天皇は香淳皇后の微笑みに癒されていたのではないかと思うのです。

 

昭和天皇は表に出るときは、国民が恥ずかしくないようにと立派なスーツをお召しでしたが、帰られるとすぐに脱がれて大切にされていたと伝わります。そして、戦後復興が進むまでカビだらけの御文庫にお住まいになられ、戦争末期に空襲にて焼かれた宮殿の再建は日本中の戦後復興が進むまで昭和天皇によって止められていました。新しく宮殿の立て直しが始められたのは昭和35年(1960年)となりますから、戦後15年目の年となっており、既に高度成長期の真っただ中の時代でした。そうなるまで昭和天皇が止められていたのです。だからこそ、こうしたスリッパのご使用だったのでしょう。現在、日本国内のトイレは世界でも最先端のトイレで世界中で有名になっていますが、6年ほど前、皇居の勤労奉仕に参加した時、皇居内のトイレが新しくなったのはまだ最近のことだと言われたことがあります。勤労奉仕の方々のために新調されたのだと聞き、宮殿内の私室の方はまだ古いままなのだろうかと心配になったものです。香淳皇后が支えられていたから昭和天皇も続けられたのではないか、とこの二つのスリッパを見ると思うのです↓

上のスリッパを見て感涙したという写真家、山端祥玉の写真展のレポート↓香淳皇后のお写真もあります。

 

2年前、百年前の映像と話題になったニュース。昭和天皇と香淳皇后が御結婚後、祖父に当たる明治天皇の伏見桃山陵に奉告のため向かわれる映像と貞明皇后が伊勢を参拝された映像です。

 

昨年は御生誕120年ということで、その後生涯を映像でまとめられた方がいました

 

明治以降の天皇と皇室の戦いが理解しやすい「天皇家百五十年の戦い」

 

最後に、こうしたニュースを見るたびに、一般人は好きにいつでもお墓参りができるけど、陛下と皇室の方々はそうしたことができないことを認識させられます。以前、陵の清掃奉仕に参加した時に、皇室の方の参拝とあたったことがありました。その時、陵に行く前に清掃奉仕団のメンバーにご会釈をされてから陵に向かわれており、私たちはお目にかかれて嬉しく思いましたが、本当に大変だなと感じたことを覚えています。そして、その時、お近くで拝見したことで、気遣いの雰囲気が立ち居振る舞いからあまりにも出ていたことにも驚かされました。写真や映像で拝見するととても華やかな雰囲気のある方なのですが、皇室の方々とは日々気を使われてらっしゃるからこのような雰囲気が醸し出されるのか、とも考えたものです。ただそこにいるだけで、そうした雰囲気が出てくる、感じられるというようなことは、普通の人にはなかなかないことだと思うのです。そしてあらためて、私はこのような方が皇室にいらっしゃる我が国に生まれたことを本当に有難いと考えるのです。

 

昨夜から伊勢では月次祭です。

 

 

 

 

 

 

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