第九三代後伏見天皇は鎌倉時代末期、持明院統の天皇です。この当時、伏見天皇の父である後深草天皇とその同母の弟であった亀山天皇の時代に始まった皇位争いにより皇室は持明院統と大覚寺統に分かれていました。

御名は胤仁(たねひと)。

御父、伏見天皇の第一皇子、御母、藤原経子。花園天皇は異母弟。

弘安十一年三月三日(1288年4月5日)誕生。

伏見天皇の譲位により永仁六年(1298年)十歳で即位、伏見上皇が院政を執りました。しかし、正安三年(1301年)大覚寺統との対立により、在位僅か三年で大覚寺系の後二条天皇に譲位させられます。

その後、後二条天皇の崩御に伴い延慶元年(1308年)異母弟の花園天皇が即位してしばらく後、伏見上皇が院政を停止されましたので、これを引き継いで正和二年(1313年)から文保二年(1318年)、院政を執られました。この間、鎌倉幕府と折衝し、持明院統と大覚寺統から交互に天皇を出す取決めを行おうとしましたが失敗致しました。

 

花園天皇御在位中の元弘元年(1313年)に、後伏見上皇と西園寺公衡の娘寧子(後の広義門院)との間には、量仁親王(光厳天皇)が誕生しました。持明院統側には、後伏見上皇、花園天皇兄弟に皇位を継承する皇子がいない時でしたので、祖父となる伏見上皇をはじめとする持明院統側にとって待ちに待った慶事となりました。

 

後伏見上皇と広義門院は大変仲睦まじく、この後、内親王お二人、親王もお二人誕生されました。その末の親王が豊仁親王、後の光明天皇となります。


文保二年(1318年)大覚寺統から同年齢で曽祖父が同じ後醍醐天皇が即位され、皇太子には大覚寺統の邦良親王(後二条天皇皇子)、またその次の皇太子には後伏見上皇の皇子、量仁親王が決まりました。しかし嘉歴元年(1326年)に邦良親王が病にて薨去され、量仁親王が皇太子に立った後も後醍醐天皇は譲位に応じず、元弘元年(1331年)倒幕の元弘の変が発覚しました。後醍醐天皇は捕らえられ隠岐に流されて廃帝になりましたので量仁親王が即位し(光厳天皇)、後伏見上皇の院政が開始されました。


元弘三年/正慶二年(1333年)足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して鎌倉幕府を倒した結果、後醍醐天皇は自身の廃位と光厳天皇の即位を否定したため、院政が停止、上皇はそのまま出家されました。

建武三年/延元元年(1336年)崩御。

 

御陵は深草北陵で、京都市伏見区深草坊町にあります。

 

持明院統では犬を飼っており、後伏見上皇には「立菊」という名前の愛犬がいたことが「花園天皇日記」に記されており、犬にまつわる逸話がいくつかあるようです。

持明院統と対立する大覚寺統の後醍醐天皇は同年生まれの再従兄弟でしたが、後伏見天皇は御歳10歳で即位され13歳で譲位されたのに対し、後醍醐天皇が即位されたのは30歳ですから心身ともに成熟した年齢であった事が、その天皇としての存在感の大きな違いとなったものと思われます。また後醍醐天皇は当時の常識からすると破天荒すぎるとも言われていますので当時最も対照的な天皇像が後伏見天皇と後醍醐天皇だったといえるのかもしれません。その後醍醐天皇により時代が目まぐるしく変わっていく中、一番振り回されたのは後伏見上皇とその皇子達でありますし、この皇子達の即位は北朝という形になってしまうのも、後醍醐天皇が退位させられたことを認めなかったことによります。しかし、その退位、廃位を行ったのが室町幕府であったことから、天皇を廃位させることが出来たのかという問題ともなってくるのです。令和の御代替わりの記憶も新しところですが、その経緯を考えあわせても、本日は譲位や退位について深く考えるのに相応しい日であるといえるかと思います。

参照:
「宮中祭祀」展転社
※祭日の日付は上記から、しかし旧暦の関係か本により崩御日が違います。 
「旧皇族が語る天皇の日本史」PHP新書

「歴代天皇で読む日本の正史」

 

 

 

 

 

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