本日は旧暦の4月22日ですが、建武元年四月二十二日(1344年5月25日)は、光厳上皇の第一皇子益仁親王が誕生した(践祚後、興仁に改める)日です。(単純に旧暦にあてはめています)

 

この頃は、後醍醐天皇による建武政権に始まる南北朝動乱の時代であり、いわゆる北朝である持明院統が劣勢の頃で、光厳上皇は大覚寺統の後醍醐天皇により退位させられ太上天皇(上皇)の尊号を奉わっていました。

 

しかし益仁親王誕生後、持明院統がじわじわと盛り返したのは、後醍醐天皇が足利尊氏と不和になり建武政権が崩壊し、後醍醐天皇が吉野へ出奔したことによります。これにより光厳上皇の弟である光明天皇が即位され、5歳になられた益仁親王は親王宣下を受け皇太子と定められました。そして、光明天皇の譲りを受け十五歳で即位しました(崇光天皇)。

 

が、翌年室町幕府の内紛が起こり全国規模の騒乱に発展、足利尊氏は後村上天皇の南朝に帰服しました。南北朝は合一し、後村上天皇が天皇となり、崇光天皇と皇太子(直仁親王)は廃されてしまいました。北朝の神器は南朝に収められ、崇光院には光明院とともに、太上天皇の称号が贈られました。

 

ところがその翌年南北朝合一は破れ、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇と直仁廃太子は南朝の本拠地賀名生(あのう)へ幽閉されてしまいました。崇光天皇の幽閉は賀名生で二年、河内金剛寺で三年に及びましたが、南朝勢力の衰微により1357年開放され京都へ戻ることになります。

 

その間、幕府は自らの正当性を支える天皇が不在なため、崇光上皇の同母弟にあたる弥仁親王を擁立、即位させていました(後光厳天皇)。

 

崇光上皇他朝廷の人々は、これも非常時の中継ぎの即位ととらえていました。

 

しかし後光厳天皇が第一皇子の緒仁親王へ譲位しようとしたため、崇光上皇は御自身の皇子である栄仁(よしひと)親王への皇統返還を主張しましたが、管領細川頼之が指導する幕府の不介入方針もあって、最終的には後光厳天皇に押し切られ、後光厳天皇から緒仁親王への譲位となりました(後円融天皇)。さらに後円融天皇が皇子幹仁親王(後小松天皇)に譲位しようとしたときも、崇光上皇は、自らの皇子栄仁親王への即位を要求しましたが、このときは逆に将軍足利義満が積極的に紛争に介入し後円融天皇を強く支持したため、栄仁親王の即位は実現しませんでした。

 

朝廷は持明院統と大覚寺統に分かれて皇統を争っていたのに、持明院統内も二つに分かれてしまったのです。その原因が大覚寺統により造られたのも因縁がありますが、後醍醐天皇、後光厳天皇ともに中継ぎの即位であったということも注目すべき点であり、取り決めを破ったがために内紛が続くこととなっています。

 

崇光上皇の子孫は皇位を諦めるよう誓約させられ、栄仁親王は世襲親王家である伏見宮家を立てられ初代当主となることとなります。

 

崇光上皇は失意のまま崩御され、遺詔して崇光院となりました。これは父君である光厳上皇を崇めるという説があります。また、「大染金剛院抜書 後花園院追号事」によれば、庵室の額名に由来するそうです。しかしここで思い浮かぶのは自らの皇統を絶たれ配流先で崩御された崇徳天皇です。崇徳天皇は同母の弟である後白河天皇に系統が持っていかれていることも同じであります。そうなると崇徳天皇のように自らの皇統を絶たれたことを主張されたようにも思えるのです。「光」の字は北朝の通字のようになっていましたので組み合わせ「崇光」とされたということもあると考えてしまいます。

 

ところで皇室の方々は、楽器演奏を皆様がされることが知られていますが、そうした伝統は古来よりあり、鎌倉初期の後鳥羽天皇以来、御歴代の天皇が好んだのは琵琶であり、鎌倉後期の皇統分立に伴いとくに持明院統で琵琶が重んじられ、大覚寺統は笛を重んじてきました。これは分裂した皇統に特定の楽器が結びつき、楽器の教習が皇統にあることの証となっていったといいます。

 

持明院統では、中継ぎで即位されてきた花園天皇や光明天皇は琵琶に携わった形跡がなく、正嫡のみが習得すべき楽器とされていました。もちろん崇光天皇も琵琶に精励しており、践祚に先立つ14歳で初めて琵琶役を務めています。そして、即位後父光厳上皇からの伝授を続々と受けています。幽閉先でも、帰京後も琵琶を極めた崇光上皇は、父君から伝授された西流だけでなく播磨局流も習得し、双方の技をマスターしていきます。そして延臣や女房たちへの伝授も行うようになりました。

 

もしかしたら、この琵琶に打ち込まれることが崇光上皇の活力のもととなっていたのかもしれません。つまりこれが自身の系統が正嫡であることの証であったからです。

 

琵琶の秘曲の一つ啄木の動画

 

 

これに対し、後光厳天皇も即位後に琵琶始を行いましたが、すぐにあきらめ笙をするようになったとあります。


また後光厳天皇のごり押しで即位された後円融天皇は終生様々な葛藤があったと伝わり、その一つに皇位の正当性もあったといわれています。無理なごり押しというものは精神的な負担や影響も大きいということがよくわかる事例ではないかと思います。

 

さてその後、後円融天皇の次の後小松天皇の時代に南北朝合一がなされましたが、その次の称光天皇は後継のないまま崩御されたので、後小松上皇は、伏見宮初代の栄仁親王の孫にあたる彦仁親王を猶子として即位させ(後花園天皇)、崇光天皇が願っていた正嫡に皇統が戻ることとなりました。これも不思議な流れではないかと思いますが、ご歴代の天皇を振り返ってみると必然なのかもしれないとも思えてきます。皇統の流れをみていると、実は天皇の意思に反した譲位や即位が行われた場合、後に元に戻っていくからです。

 

 

 

参照:「室町・戦国天皇列伝」他

 

 

東儀秀樹さんが、一人オーケストラの君が代演奏で、最初に演奏されるのが笙です。これは湿度調節をしながら演奏をしなけらばならない扱いが難しい楽器といいます。

昨年5月28日には、天皇陛下と敬宮殿下がお揃いで雅楽鑑賞されたニュースがありました。敬宮殿下はその後も何度も雅楽鑑賞されていることがニュースとなっています。宮内庁学部は皇居東御苑にあり、東御苑を散歩している際に練習の音を聞くことがあります。

 

天皇陛下はヴィオラを演奏なさいますが、昨年天皇陛下がヴィオラのコンサートを鑑賞されたニュースがありました。

 

令和の御代替わりの時に、海外で話題になっていたのが天皇陛下がヴィオラを演奏なさる事。敬宮殿下も以前、チェロを演奏されることがニュースになったことがありました。皇室の方々は現在、洋楽器の演奏をそれぞれが行いますが、古来からの

 

 

 

 

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