第十四代仲哀天皇は、古代の天皇で四世紀後半頃の、古事記、日本書紀の時代の天皇です。

 

御名は帯中津日子命/足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。

 

御父は倭建命/日本武尊(やまとたけるのみこと)、御母は布多遅能入理毘売命/両道入姫命(ふたじのいりびめのみこと)で垂仁天皇の皇女。


容姿端麗で背も高かったといわれています。


成務天皇四十八年、成務天皇に皇子がいないため、天皇の異母兄である日本武尊の第二皇子の足仲彦尊が三十一歳で皇太子となられました。 それから十二年後に天皇の崩御により即位されましたが、成務天皇までの歴代の天皇は全て親から子の形の即位でしたので、親子以外での初即位となりました。

 

即位されると詔し、父王(きみ)である日本武尊の魂が白鳥となり天へ上ったことから父を偲び陵のまわりの池で白鳥を飼いたいと献上させました。

 

群馬県館林市の多々良沼に毎年飛来する白鳥を以前撮ったもの

DSC_0470.JPG


また息長帯比売命/気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后としました(神功皇后)。その父は、開化天皇の玄孫、息長宿禰王で、母は天之日矛の子孫です。


この年、熊襲が朝貢しなかったので、熊襲を討とうと出征しましたが、橿日宮の神託が神功皇后におりて「熊襲より新羅を討ったほうがよい」といわれました。天皇はこの御神託が信じられずに熊襲を討ちにいきましたが勝てず、急に崩御されました。

 

古事記では、御神託を信じなかったことから神が大いに怒ったとはっきり書かれており、神罰が降りたといわれるのが仲哀天皇です。


その後、神功皇后が即位されたとされ、神功皇后は大正15年までは第15代天皇と数えられていましたが、大正15年の勅書により歴代天皇からは外されました。


和風諡号は、「たらしなかつひこすめらのみこと(足仲彦天皇:日本書記、帯中日子天皇:古事記)」。

 

御陵は惠我長野西陵、大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にあります。

 

 

 

周辺には多くの古墳があり、父である日本武尊の白鳥陵古墳、皇子の応神天皇陵もあります。仲哀天皇陵がある藤井寺市は、仁徳天皇陵をはじめとする世界遺産の古墳群のエリアの地域ですが、天皇陛下がお祀りをされている皇室の御先祖様の御陵ですから遺産ではありません。我々日本人が謹んでお参りさせていただくのと、世界中から興味本位で観光に来られるのとは違うのではないかと思います。ましてや勝手に発掘とか調査とかしようとするのは問題外です。大阪府は、皇室の御陵を預かっているという意識を持ってほしいと考えています。 


 

日本武尊は悲運の皇子として有名ですが、奇しくもその皇子であった仲哀天皇は悲運の天皇として漢風諡号もそのような字で淡路三船に撰進されています。

 

 

 

香椎宮、気比神宮は仲哀天皇が御祭神とされています。また多くの八幡神社にも御祭神として祀られています。香椎宮は、仲哀天皇が崩御された橿日宮に神功皇后が祠をたてたことにはじまります。香椎宮では3月6日に、仲哀天皇と神功皇后をお祭りする古宮祭が行われています。

 

なお橿原神宮の後ろの畝傍山には神功皇后が御祭神だったこともある東大谷日女命神社があります。

 

1488921566096.jpg

 

1488921567189.jpg

 

1488921568301.jpg

 

参照:「宮中祭祀」
「現代語古事記」
「天皇のすべて」
「全現代語訳日本書紀」
「歴代天皇事典」
「歴代天皇で読む日本の正史」

 

 

 

 

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎