祭日とは命日の事です。ここでは御歴代の天皇の祭日のことをいいます。奇しくも本日は同母弟が皇太弟として即位された天皇の祭日が重なっています。

 

第十八代反正(はんぜい)天皇は古代の天皇です。

 

御名は水歯別命(みつはわけのみこと)/多遅比端歯別尊(たじひのみつはわけのみこと)。

 

御父は仁徳天皇、御母は磐之媛命。


仁徳天皇が崩御された後、第一皇子だった履中天皇が即位しましたが、その即位前の皇太子だった時に、同母弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が、皇太子であると偽って婚約者を横取りしその発覚を恐れて太子を殺そうとしたことがありました。その時同じく同母弟であった端歯別皇子は、どちらに従うか迷い嘆きながらも道のある兄のほうについて住吉仲皇子を討つ手伝いをしました。

 

その後履中天皇が即位すると、皇太子には自分の皇子ではなく同母弟の端歯別尊を立てました。 そして履中天皇が崩御されると即位されました。皇太弟が即位されたのは、初めてのことでした。


端歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)は淡路島で生まれ、歯が一本の骨のようで上下が揃い容姿も麗しかったといいます。瑞井(みずのい)という井戸で太子を洗った時に多遅(たじ)の花が井戸の中にあったので、多遅比端歯別皇子のいわれとなりました。容姿端麗で歯もきれいであったことから、歯の神様とも言われています。


この時代は五穀豊穣で人民は富み賑わい、天下太平と伝わります。

 

宮は丹波柴籬宮(たじひのしばかきのみや)、現在の大阪府松原市上田の柴籬宮神社がその跡地と言われており、反正天皇が祀られています。歯の神様らしく歯の神社としても知られていて授与品には歯の御守りがあります。


日本書紀によれば即位五年目の一月崩御されました。古事記によれば七月六十歳にて崩御とあります。


御陵は百舌鳥耳原北陵、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町にあります。

 

堺は三国の境に位置することからついた地名といいますが、そのことからどこの方角にも属していないという方違神社(ほうちがいじんじゃ)があります。その方違神社に隣接しているのが反正天皇陵です。私は以前早朝にお参りした時に、凄くきれいな朝日の写真が撮れましてそれから特別に感じております。きっと何か意味があって隣接した地に陵が出来たのだと思います。なお、創建は反正天皇より遡る第10代崇神天皇により素戔嗚命(すさのおのみこと)を祀らせたのが始まりとされ、他に、八十天万魂神(やそあまよろずみたまのかみ)、三筒男大神(みつつおのおおかみ)、息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后(反正天皇の曽祖母)が御祭神として祀られています。また反正天皇の父の仁徳天皇、反正天皇の兄の履中天皇、さらに反正天皇も合祀されていますので、ここにお参りするだけで沢山の神々や天皇をお参りすることになります。私は三度、反正天皇陵と方違神社にお参りいたしました。今後も機会あるごとにお参りしたい神社の一つです。なお、神職の方に以前、なぜ「ほうちがい」で「かたちがい」とか「かたたがえ」じゃないのか聞いてみたところ、若い方だったからかわからないとのお返事でした。

 

 

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方違神社の鳥居、この右手奥に行くと反正天皇陵が見えます。

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こちらは側面からの反正天皇陵。正面は方違神社と反対の方向にあります。

 

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早朝の方違神社、現在は社殿が新しくなっています。↓こんなのはカメラと光の関係でとかなんだとか思われるかもしれませんが、こんな凄いお米光線(勝手にそう呼んでます)になったことはないので特別に感じて、東堺に行く機会があると必ずお参りすることにしています。といってもまだ3回しかありませんが。

 

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反正天皇陵は、父君の仁徳天皇陵、兄君の履中天皇陵、また御祖父の応神天皇陵、また弟君の允恭天皇陵他、とともに百舌鳥古市古墳群の中に含まれていますが、天皇陛下の御先祖様であらせられますから、遺産ではなく今も守られているお墓であります。勝手に世界遺産に申請した大阪府は、天皇の御陵を預かっているという意識がなさすぎると考えています。

 

 

 

第六十九代後朱雀天皇は平安時代の天皇です。

 

寛弘六年(1009年)生。

 

御名は敦良(あつなが)。

 

御父は一条天皇、御母は藤原道長の娘、彰子(しょうし)。中宮の彰子に仕えていたのは紫式部で、彰子に仕えている時に『源氏物語』を完成させたといいます。後一条天皇は同母兄です。


在位、長元九年(1036年)から寛徳二年(1045年)。


後朱雀天皇がまだ皇太子の時代、東宮妃として入内したのは藤原道長の末娘の嬉子(きし/よしこ)でした。母の妹ですから叔母でもあります。この頃は天皇、皇子共に藤原家と入り組むように結び付いており、藤原家全盛の時代でした。


第六十八代後一条天皇はお世継ぎの皇子に恵まれないまま崩御され、同母弟の敦良親王が即位(後朱雀天皇)。皇太弟が即位したのは、13回目となりました。


後朱雀天皇は、諸制度の厳格な運用を励行されたそうです。


この時代比叡山の不穏な動きがあり、宮中には放火が頻発しました。後朱雀天皇はこれを「徳のない自分が皇位についているからだ」と強い責任感を示したといいます。


在位十年のとき天然痘が大流行し、後朱雀天皇もこれに罹患し崩御。後朱雀天皇の曽祖父である村上天皇の同母の兄、朱雀天皇の号から追号されています。


御陵は圓乗寺陵、京都市右京区龍安寺朱山、龍安寺内にあります。龍安寺は石庭で有名ですが、京都の有名なお寺というのはどちらも皇室とも深いかかわりがあるんですね。若い頃観光で行ったとき、何も知らなかったのが本当に惜しいです。龍安寺HPには御陵についての記載がありませんが、地図を見ると一条天皇陵のみ後ろに書かれていますが、ここには五基の御陵があります。

 

 

 

参照:「宮中祭祀」
「古事記」
「全現代語訳日本書紀」
「歴代天皇事典」
「天皇のすべて」

 

古代天皇は記紀の時代の天皇

 

 

漫画の古典的存在になっている源氏物語を描いた『あさきゆめみし』。私の従妹は文学部の大学時代、教授にこれを読めといわれたそうで、それを聞いて笑った覚えがあります。私はその従妹の家でこれを全部読みました。が今では大塚ひかり氏の古典解読本をよく読むようになり、源氏の見方も随分変わってきました。現在、大河ドラマが紫式部を取り上げており、様々なこの時代の書物やムック本が出ていて面白い本を見つけられる時期となっていて、楽しみとなっています。

 

 

 

 

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