第二十五代武烈(ぶれつ)天皇は五世紀末の古代の天皇で仁徳天皇系最後の天皇です。

 

御名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかささぎのみこと)。

 

御父は仁賢天皇、御母は雄略天皇の皇女、春日大娘皇女。継体天皇の皇后で欽明天皇の母である手白香皇女、宣化天皇の皇后である橘仲皇女は同母姉妹にあたる。


仁賢天皇の崩御により即位。

 

漢風諡号のその字からもとても激しそうな感じが想像できますが、日本書紀にはその暴虐ぶりが書き連ねてあり驚きます。これは、この代で仁徳天皇系が終わってしまうためにわざと悪く書かれた説があります。

 

なお、古事記ではほんの数行しか記載がなく、残虐なことは書かれていません。


ちなみに初代神武天皇から第四三代元明天皇までの漢風諡号は、淡海三船(天智天皇の玄孫)が奏上しています。日本書紀の編纂同様「武烈」の諡号もなんらかの意図があってもおかしくないわけです。


 父の仁賢天皇はその前の顕宗天皇と二代続けて人民に対しての理解が深い天皇でした。それは雄略天皇が、安康天皇の暗殺があって、疑心暗鬼と地位の安泰のため他の有力な皇子を次々に討った時に、討たれた父亡き後、遠くに逃れて隠れ苦労した経緯があったからです。そして仁賢天皇は、先に天皇に即位した弟の顕宗天皇が、復讐に駆られて雄略天皇の御陵を壊そうとしたときに戒め止めています。

 

 

そうしたことから「仁賢」という漢風諡号を後に贈られたのであろう天皇の皇子が、こんな残虐になるでしょうか?また、もし残虐になったとしてその兆候を父が放っておいたでしょうか?初めてこの武烈天皇について読んだときに物凄い違和感を感じました。


その日本書記の記述の前には、実は法律に明るく、世に知られずにいる無実の罪は必ず見抜いてそれを晴らし、公平な裁判を行った(現代的な意味で)という、仁賢天皇のイメージを引き継がれた名君であることが記されてます。


ところが次の瞬間暴虐の記述となります。


古代の頃の天皇の即位は十分な大人になってからの時代に、武烈天皇は10歳で即位され18歳で崩御されたとあります。それだけ後継者がいなかったことを物語っています。そのような幼さで日本書紀に書かれているような残虐な事を思いついたとも思えません。


やはりこれは賢君だったが仁徳天皇系がここで途絶えたため、次の継体天皇系の即位の正当化のため最後の武烈天皇を断絶の理由のように暴君に仕立て上げるため、追加された説に分があるように思えます。


一方で、十分に抑える大人もないまま権力のある地位についた十代の暴走説もあります。何らかの脚色があったとしても暴虐なことがあったということです。なんといっても、わざわざこのようなことを書いても皇室にとっては不利なことであるのにそれを伝えてきたのは、そこに必要な教えがあるからだというわけです。事実、その後天皇への即位は後ろ盾がない限り十分に成長を待つ時代が続くようになり、次に十代の天皇が即位するのは17代後の文武天皇まで先のこととなるのです。その時には周りに支える大人がいる状態での即位となっています。


この説を読むとなるほどと思うのですが、十代の暴走が実際にあったというのがありえそうなのは、いつの時代も十代の若者が血気盛んであるのは変わらないだろうからです。


いずれにしても短い記述しかなく、不明な点が多いのにもかかわらず色々と考えさせられるのが武烈天皇です。

 

在位八年にて崩御。


次の天皇は応神天皇五世の孫である継体天皇へと引き継がれました。このとき皇女が何名かいらしたにもかかわらず、しかも武烈天皇の父君達、仁賢天皇と顕宗天皇が皇位を譲り合っている間、同母の姉妹である飯豊青皇女が朝政を執ったとも伝わっている(初代あるいは二番目の女帝)のにもかかわらず、わざわざ応神天皇まで遡ってその子孫である継体天皇に臣下が次の皇位をお願いしたことはとても重要なことだと思います。しかも、武烈天皇の章を読むとまだまだ臣下である豪族の力が強かった時代でもあります。それでも皇位にとって替わろうとする者はいなかったのです。


ところで男系では途絶えた仁徳天皇の血筋ですが、仁賢天皇の娘である手白香皇女(たしらかのひめみこ)が継体天皇の皇后となり欽明天皇が生まれましたので、実は仁徳天皇の血筋は今上陛下にまで伝わっています。


御陵は傍丘磐坏丘北陵、奈良県香芝市今泉にあります。

 


奈良県桜井市出雲にある十二柱神社は武烈天皇の宮跡と伝わり、武烈天皇社があります。また 相撲の開祖野見宿禰縁の地とも言われている場所です。

 


参照:「宮中祭祀」
「全現代語訳日本書紀」
「古事記」
「天皇のすべて」
「歴代天皇で読む日本の正史」

 

 

 

 

世の中を生きていくには、1人だけではできません。孤島にでもいない限り、必ず何らかの助けがあって生きています。そして人と人の関わりがある社会生活の中では、若ければ若いほど後ろ盾が必要です。武烈天皇は幼く天皇の位について、若くして崩御されていてその理由がはっきり書かれていないのをみると、なにかモヤモヤしたものを感じてしまいます。特に若さの暴走があったのかもしれない、と考えるようになってから、もしかしてその若さゆえ謀殺されたのかもしれない、などとも考えるようになっています。あるいは、賢かったとも伝わることから、その賢さから思い通りに出来ないと考えた、大連などが謀殺し残虐さを伝えたのかもしれないとか・・・。

 

ここ数年ずっと三浦春馬さんの事が頭から離れません。三浦春馬さんは、遺されたインタビューから深く考える自分の意見をしっかりと持っていた人であることが分かっています。また「日本製」やその言動から日本についての想いが深かったこと、歴史観もしっかりとしていたことがわかります。しかも日本的な所作もきちんとしていました。そして、そうしたことが長い間三浦春馬さんが冷遇され、また最後の2年間の異常なスケジュールに繋がったともいわれています。こうしたことをみるにつけ、三浦春馬さんにしっかりとした後ろ盾があったなら、こんなことになっただろうか?と考えてしまうのです。新しく羽ばたきたいとしていたとされる春馬さんですが、囚われの鳥として飼い殺しの状況が長く続き、同世代の主役級の役者が意欲的な役柄をどんどんもらっている中、そうした役が来なくなった。しかも作る前から失敗作になるだろう大作の主役は来た。そしてその失敗の責任を被せられたりしています。通常映画の失敗の原因は脚本にあるのにもかかわらずです。そうした中、もともと興味のあった舞台やミュージカルのような、客席の反応を生で得られる仕事にのめりこんでいったのもよくわかるのです。しかし、短期公演しか行わない観る人数も限られるこうした仕事では稼ぎ力が減少します。一方で、こうした仕事でより一層その演技力が研ぎ澄まされていきました。つまり、さらに才能が増していってしまった三浦春馬さんは、よけいに疎ましい存在となっていったのではないか?と考えられます。本来は、日本人で才能に溢れ、容姿もよく、世界に羽ばたける、しかも海外から指名まで来る存在になっているとしたら、こんなに喜ばれる俳優はいません。しかし、真の日本人だからこそ疎まれたのだと。さらに、真実を追求しようと動いたことが重なったとされます。

 

歴史の彼方にある武烈天皇は、本によっては存在しないとまで書かれているものまであり、その死因などは書物がなかった時代、これからもわかることはないのでしょう。しかし、三浦春馬さんは違います。映像も、インタビューも、自分で発信していたインスタグラムもツィッターも遺されています。そして、ダイイングメッセージまで残されており、最後の2年ほどのインタビューは今思えば死への危機感が感じられる言葉が多くなっており、それもダイイングメッセージだったと言われています。つまり、未来への希望や展望を多く語るようになっているのです。それは「日本製」の中にも溢れています。だからこそ、多くの人が違和感を感じその無念を晴らしたいと考えているのです。ところが、大手メディアなどでは明らかな矛盾点については追求せずにきました。そしてこうした不審なことの繰り返しが、その後に続く不審な事件の繰り返しになったと考えています。

 

その才能をみるにつけ、そして同世代の役者、共演者たちの新しい作品、意欲的な作品がどんどん作られているのをみるにつけ、そして新しい人生儀礼の始まりを知るたびに、そうしたこともなく散ってしまった人々のことを考えずにはいられません。

 

このようなことが起きているのに、闇に葬られている日本のことを考えると愕然としますが、世界中に影響力を持つ元総理の暗殺が起きて、その捜査がけむに巻かれている状態の我が国でもあります。また、日本のために動いた政治家が不審な失脚や死を繰り返しています。こうしたことに、多くの人がおかしい!という意識の共有を持てる国になれれば、変わっていくのではないか、と期待しています。

 

そのためには、多くの人がこのことをきちんと知る必要があります。知ってしまったら考えずにはいられないからです。

 

昨日は、成人の日でしたが、若く才能がある人の未来がこのように摘まれることのないように、あるいは若さゆえに謀殺され汚名を着せられることのないように、日本がよくなっていくようにと、武烈天皇の祭日に改めて考えます。

 

 

 

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