★第二九代欽明天皇は大和時代の天皇です。

 

和風諡号

あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと

天国排開広庭天皇。


御父継体天皇即位後に皇子として誕生され、御母は仁賢天皇の皇女、手白香皇女(たしらかのひめみこ)で雄略天皇の皇女、春日大娘皇女、雄略天皇は母方の曽祖父。

継体天皇三年(509年)誕生。

即位した年代に複数説がありますが、継体天皇以降の御歴代天皇の中では、昭和天皇、明治天皇に次ぐ長い在位(539年~571年)となっています。

 

皇后は宣化天皇皇女、石姫皇女。

 

また蘇我稲目の二人の娘、堅塩媛、小姉君が妃となり多くの皇子女がいたことから、蘇我氏が勢力を伸ばしていく時期ともなり、これが後継争いにも繋がって行きます。ちなみに堅塩媛には十三人の皇子女がおり二人天皇に即位し、小姉君は六人の皇子女で一人が天皇、一人が皇后になっています。

 

皇子女には、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、崇峻天皇がおります。なお、聖徳太子の皇祖考(祖父)でもあります。


在位後は高句麗、新羅、百済、任那からの朝貢がありました。しかし、半島は落ち着かない状態で新羅は日本政府のある任那を併合してしまいます。

百済は半島内の形成が不利になった時に支援を求めるために日本に人質を送り、大陸からの文化や文物、優秀な人材を日本に提供し対日関係の強化に努めていました。

 

欽明天皇在位中は何度も百済からの依頼があり、新羅との戦いの為に軍事支援を行いました。その見返りに欽明天皇十三年(552年)に、仏像と経文が百済から贈られたのが仏教伝来の始まりとされています。それは、仏教排斥派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の対立が起こり、物部氏は寺を焼き仏像を投げ捨てるなど両氏の確執が始まった時代でもあります。しかし一方では、欽明天皇は蘇我稲目の熱心な訴えにより仏像の崇拝を許してもいて、神仏融合の始まりの時代でもあるのです。

欽明天皇二十三年(562年)には半島南部に置いていた任那の宮家が新羅により滅ぼされました。天皇は、かつて新羅が困って神功皇后を頼ってきたのを憐れんで討たれそうになった新羅王の首を護り新羅を特別栄えるようにしたのに、日本政府のある任那を攻め人民を虐げ、肝を裂き足を切り、骨をさらして屍を焼いた・・・と詔されました。このように天皇が詔されるということは余程の目に余る虐殺があったということです。この時多くの渡来人が帰化したと伝わり、半島有事には(有事でない時もですが)古来から日本に多くの人々が移り住んで来たことがわかります。古来から変わらぬ半島の姿は、きちんと知っておくべきことでしょう。

その後も新羅や高句麗の朝貢の記録があり、朝廷も饗応を行っていることから、当時の日本の影響力が伺えます。

欽明天皇三十二年(571年)に崩御。その直前皇太子(敏達天皇)に、「新羅を討って任那を封じ建てよ」と遺詔されるほど、任那の事が最後まで気がかりになっておられたようです。

御陵は檜隈坂合陵、奈良県高市郡明日香村にあります。

 

大江神社には欽明天皇が祀られていますが、天王寺七宮と云われ、四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られたものとして伝わる神社です。

 

 

 

 

★第四四代元正(げんしょう)天皇は奈良時代の天皇、女帝です。「続日本紀」によれば、慈悲深く落ち着いた人柄で、あでやかで美しかったといいます。

 

和風諡号

やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと

日本根子高瑞浄足姫天皇

独身で天皇になり、その継承は母である元明天皇からの譲位という母から娘への唯一の譲位です。

 

元明天皇治世に平城京に都が移ったことにより奈良時代が始まっています。


御名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。

御父は草壁皇子、天武天皇と持統天皇の皇子です。御母は元明天皇、天智天皇の皇女です。つまり元正天皇は天武天皇と天智天皇両方の血筋を引かれていました。この時代は異母兄妹であればであれば結婚できる近親婚の時代であり、元正天皇の母、元明天皇は天智天皇の皇女で、持統天皇の異母妹でもありました。つまり元明天皇も、元正天皇も父方は天皇、または皇子であり父系継承での譲位だったことが明確にわかります。

 

生年は天武天皇九年(680年)。

 

天武天皇は自分の死後皇位を巡って皇子達が争うのを恐れ、ご自身の皇子四人と天智天皇の皇子二人を集め宥和を説き、皇太子には草壁皇子を立てました。

 

天武天皇が崩御すると、草壁皇子を次の天皇に就けるまでの中継ぎで、天武天皇の皇后が即位し持統天皇となります。しかし、草壁皇子は若くして薨去したため、草壁皇子の子の軽皇子が成長した後、文武天皇になりました。しかし文武天皇も若くして崩御され、文武の母、つまり草壁皇子の正妃が即位し元明天皇になったのです。

 

それはやはり文武天皇の皇子の首(おびと)皇子が幼かったためです。そして、その母から、譲位されて天皇に即位したのが文武の姉、氷高皇女(ひたかのひめみこ)で、元正天皇となりました。それまでの女帝は、皇后や皇太子妃であったのに対し、婚姻せず即位された初めての女性天皇でした。

 

 

 

 

即位期間は、霊亀元年(715年)~養老八年(724年)。


霊亀三年(717年)、多治比県守(たじにほあがたもり)を押使(長官)として第九次遣唐使の派遣をしています。玄昉、吉備真備、阿倍仲麻呂らの留学生を含めた五五七人の派遣です。阿倍仲麻呂は唐で科挙に合格し玄宗に仕えて高官となり、日本への帰国を果たせず客死しましたが、吉備真備は一七年後に帰路につき嵐にあって種子島に漂着するも多くの典籍を携えて帰朝しました。

同じこの年から養老律令の編纂が始まりました。中断の時期を経て四〇年後に完成施行されます。
 

養老四年(720年)、日本書紀の編纂が完成しました。神代から第四一代持統天皇の御世までを扱う日本の正史です。3年前は日本書紀編纂1,300年の記念すべき年でした。欽明天皇は日本書紀に書かれた時代の天皇ですし、元正天皇の祖母の持統天皇の時代までが書かれています。

 



またこの年、藤原不比等が病に倒れ死去しました。そのため翌年、長屋王が右大臣に任命されました。長屋王は元正天皇の従兄弟にあたり天智天皇の孫で天武天皇の血も引いていました。

 

藤原不比等は大化の改新で有名な中臣鎌足の息子です。天智天皇(中大皇子)から藤原姓を受けて藤原を名乗っています。そして、政権基盤を堅固なものにするために不比等以後、藤原氏はあの手この手を使っていきました。そんな時代に元正天皇は天皇になり、上皇にもなっていたのです。

そして同じ年、史上初の蝦夷の反乱が起き、記録に残る最初の征夷大将軍として多治比県守(たじにほあがたもり)を派遣しています。これは第九次遣唐使節団を率いた統率力と東国武蔵国守を務めた経験から任命されたもので、半年後乱を鎮圧して帰還しています。

養老八年(724年)には首皇子に譲位(聖武天皇)しますが、天皇が病弱であったため補佐をすることが多く、天平十五年(743年)には上皇にもなっています。
 

文武天皇の夫人は、不比等の娘の宮子で、その皇子が聖武天皇でしたから、天皇の祖父にもあたります。そしてさらに、後妻との間の娘、光明子を聖武天皇の皇后にすることに成功しています。皇室の歴史上、それまでは皇族か皇別氏族からしか皇后になっていなかった時代に、初の外からの皇后です。(もちろん正妻以外であれば皇室外からでもありましたが)

その間、光明子の立后に反対の長屋王が謀反の疑いをかけられ滅ぼされました(長屋王の変:神亀六年(729年))が、長屋王は天武天皇の皇孫、その妃は元正天皇同母妹の吉備内親王であり、子女は皇孫としての詔勅が出されていたため、聖武天皇の外戚になる藤原氏による排斥であったといわれています。

 

 

天平二十年(748年)崩御。
 

御陵は奈保山西陵で、奈良県奈良市奈良阪町弁財天にあります。

 

以前、敬老の日について調べたところ、養老伝説に縁があることが分かりました。養老伝説のある養老の滝には、養老神社があり元正天皇が祀られています。元正天皇といえば養老の滝に行幸された後、元号を養老と改元(霊亀三年十一月十七日)された事が知られており、数年前に養老改元1300年祭が養老町で行われました。また欽明天皇もこちらに行幸されたことがあり、その日が敬老の日になった説もあります。奇しくも本日は、敬老の日に縁のある天皇の祭日が重なった日となっています。

 

 

 

参照:
「宮中祭祀」展転社
※祭日の日付は上記から、しかし旧暦の関係か本により崩御日が違います。
「旧皇族が語る天皇の日本史」PHP新書
「歴代天皇で読む日本正史」


当時のイメージ、元正天皇が遷都の詔をし、聖武天皇、光明皇后、考謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇、光仁天皇、元明天皇が行列を繰り広げるお祭り↓

 

 

伝統を守るということはどういうこか、分かりやすい解説動画

 

 

 

 

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