本日は旧暦11月12日ですが、治承二年十一月十二日(1178年)、845年前の本日は高倉天皇の第一皇子、言仁(ときひと)親王が誕生された日です。


時は平安末期、親王の母君は平徳子(建礼門院)で外祖父は平清盛でしたから、平家待望の皇子誕生です。徳子懐妊の際に行われた祈祷には、「変成男子の法」もあったといいます。また月が満ちるにつれ身体の苦しさを訴える徳子には、平氏に恨みを持つ生霊・死霊の物の怪が取り憑いているとされて鬼界ケ島の流人が許されました。この時僧俊寛を除く者だけだったという、その話が歌舞伎にもなっています。


 

さらに「平家物語」や藤原忠親の日記に、祖父の後白河法王自ら悪霊調伏・御産安全の験者を務めたと書かれています。清盛と対立する朝廷との間を結ぶ存在と期待された皇子の誕生でもあったのです。

 

しかし、言仁皇子誕生の翌年、清盛はクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉しその院政を止めてしまいました。

 

言仁親王は生後一か月で立太子され、満一歳四か月で高倉天皇の譲位を受けて即位されています(安徳天皇)。父の高倉上皇には形だけの院政を敷かせ、政治は全て外祖父の清盛が取り仕切りました。

 

しかし、これに対して明確な越権行為だと怒ったのが後白河法皇の第三皇子の以仁皇子で、源頼政を誘って平氏打倒の挙兵をするとともに全国に平氏討伐の「令旨」を発せられました。源頼政の挙兵は失敗しましたが、伊豆の源頼朝や木曽の源義仲らが蜂起することになり、平家の運命も暗転していくことになるのです。

 

そんな中、治承五年(1181年)一月に父の高倉上皇が崩御され、二月には平清盛も急死しました。

 

平家は全国で起こる乱に対処できず都落ちをするのですが、その正当性確保のために後白河法皇を同行させようとしますが比叡山に退避されたため、幼い安徳天皇と建礼門院、そして三種の神器をともなっていきました。

 

後白河法皇は、源義仲に「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡・剣璽を連れ去った」として平氏追討宣旨を下されました。


後白河法皇は、平時忠ら昇殿資格のある堂上平氏の官職は解かずに、天皇・神器の返還を求めましたが、交渉は不調に終わり、都に天皇不在となることからやむをえず都に残っている高倉天皇の遺児から新天皇を擁立することを決めます。そして安徳天皇の母である建礼門院の異母兄にあたる平時忠を除く平家一門の官職は全て剥奪され平氏は賊軍として追討されることとなりました。


そして後白河法皇の意向で高倉天皇の第四皇子尊成親王が践祚されました(後鳥羽天皇)。安徳天皇御在位のまま神器なしで即位され形式的には二人の天皇が並立する状態となり、幼い天皇の為、後白河法皇が治天の君の役を果たされたのです。


この間、源義仲が都で暴れまわり後白河法皇が幽閉されるということもありました。法皇は源頼朝が遣わした範頼・義経軍に救出され、義仲は敗死します。その後平家が一の谷で壊滅させられたのが寿永四年(1185年)二月七日、そして三月二十四日に壇ノ浦で平家は滅亡することになるのです。


この時安徳天皇は、祖母の二位尼(平時子)に抱かれて三種の神器と一緒に入水されました。満六歳四カ月の幼さですから歴代天皇最年少の幼い崩御です。


この五年後、安徳天皇を祀られてできたのが水天宮です。現在日本全国にありますが、子供の守護神として信仰の篤い神社として知られ、安産・子授けの神としての参拝が多いことでも知られています。

 

 

東京の水天宮は、元々久留米藩有馬家、の上屋敷内にあった水天宮を勧請した神社です。

 

また同じく安徳天皇を祀る赤間神宮は、神仏習合の時代は阿弥陀寺ともいわれ、仏式で平家一門を弔っており、「耳なし芳一」の舞台でもありました。そして安徳天皇の御陵もここにあります。

 

 

なお安徳天皇には四国の山奥に逃れたという伝説もあります。四国出身の竹宮恵子さんはそれを漫画に描いており、私はそこからこの伝説を知りましたが、今でも平家落人といわれる集落や、安徳天皇縁の場所が残されています。以前これを四国に行く予定の友人に伝えたところ、安徳天皇縁のところをテーマに旅行してきたと報告を受け、考えてた以上に縁の場所があって驚きました。向かったのは阿波、徳島なのですが、徳島は古事記の故郷ともいわれる地であり、だから安徳天皇は徳島に向ったのかもしれないと思わせる伝承です。

 

徳島の安徳天皇が火葬された場所に創られたとされる神社

 

 

平家自らの滅亡に天皇を道連れにした前代未聞の大事件だった壇ノ浦の戦いは、朝廷の宝である三種の神器も一緒に海に沈んだ国史上最大の事件の一つでした。

 

 

平家に関しては色々な事が言われますが、安徳天皇と三種の神器の件からみれば、この時の平家内にはろくな人物がいなかったことがわかります。平時子も相当浅はかな女性だったのではないかと思います。一方でこの時安徳天皇は東を向いて伊勢神宮を遥拝し、西を向いて念仏を唱えたといいますから聡明な幼帝だったのだと思います。

 

神話にもあるように三種の神器のうち、神鏡は伊勢に神剣は熱田神宮にありました。しかし例え摸した物でも本物と同様にしているからこそ価値があるのです。そして神璽は唯一無二のもの。この神鏡と神璽の形代は木箱に納められていたため水に浮き回収できたといいますが、もし木箱に入っていなければ失われていたかもしれません。事実、布に巻かれていた宝剣は今も海に沈んだままだといいます。やむをえず伊勢神宮の神庫から後白河法皇に献上されていた剣を新しい形代にしたといいますが、後に後鳥羽天皇は再捜索を命じています。しかしみつかりませんでした。

 

令和の御代替わりでも皇位継承に伴い神器を引継ぐ儀式である剣璽渡御の儀がありましたが、この神器の引継ぎである践祚が必ず行われてきたのが、皇位の引継ぎでありましたから、このことを終生気にかけていた後鳥羽天皇のお気持ちもわかる気がしますし、そうしたことが後に承久の変に繋がっていったのかもしれません。

 


源義経は、兄の源頼朝に安徳天皇と三種の神器の保護を厳命されていますが、両方とも果たせなかったばかりか、回収できなかった宝剣についても宇佐八幡宮に祈っただけで真剣に探さなかったといわれる愚かな人物です。なんといってもその三種の神器の内の神剣を預かる熱田神宮の宮司の娘を母に持つのが兄の頼朝です。その兄の厳命が理解できなかったから、安徳天皇と三種の神器を海に沈めてしまったような戦をしたとしか思えないのです。形代であろうとその宝剣を失くした義経への頼朝の怒りは相当大きかったはずです。しかも源氏は元をたどれば天皇の皇子が臣籍降下した子孫なのです。私は頼朝と義経の不仲の原因がこのことを知ってからやっと理解できたのです。実はこういうことは多くあります。日本のありようを知ることで歴史への理解が深まるのです。


また、その兄の頼朝の行動は、後白河法皇の平家追討の宣旨によりますから、後白河法皇の願いでもあったわけです。その後白河院は、義経が平氏を追って四国に出撃することを奏上した時、京都守護が手薄になるので反対しており、それを最終的に認めた後もやはり京都が不用心になると義経の発向を制止させる行動に出ていました。それを振り切って義経は出陣し、壇ノ浦まで行っています。後白河法皇は、下々のものとも接してきた今までにいない天皇であり、また多くの政変をくぐり抜けてきた法皇として、人を観察する目があったのではないかと思うのですが、その法皇が何度も引き留めたのは、義経の理解力のなさが安徳天皇の命と皇室の宝を護りきれないと危惧したからではないか、と、そこまでお考えになったのではないかと思えてきます。


後白河法皇は義経から平氏討滅の報告が届くと、関東に使者を送り頼朝の功績を称賛していますが、安徳天皇の崩御と神器喪失に一番怒っていたのは法皇と頼朝だったのだと思います。


義経は平家追討の功績により官位を受けますが、本来であれば失態を恥じて辞退すべきものでしたが、そうしたことを義経は理解できなかったのです。いえ、そうしたことを理解できないような人物であったがために、安徳天皇と神器は失われ、そうなることを後白河法皇は危惧していたのではないかと思われるのです。


義経は兄の怒りを理解できず、逆恨みで兄の頼朝と対立していき自滅したといえます。


歴史はIFを考えるためにあります。IFを考え、過ちを繰り返さない為です。そしてこのIFは、重大な任務はその任務をきちんと理解した者が責任者とならなければ大きな過失を生むということです。例えば、平家追討の総大将を頼朝が勤めその配下で義経が動いていたら、安徳天皇も神器も無事だったかもしれません。あるいは、話を聞かない、つまり無知な人間なのに、実行力だけはあるような人間は危険だということでもあります。現在も、こういう政治家がたくさんいますが。こういう人物は危険だという教訓となるのが源義経の話です。また、義経の母の常盤御前は平家物語によれば平治の乱で源義朝が亡くなった後、平清盛の妾となります。命が助けられた義経には本来の源氏の子弟が知るべき教育は施されなかったでしょう。実際ある程度成長すると、お寺に預けられています。そうした偏った教育が義経という人物にはあったのかもしれません。それはまるで戦後自虐史観を植え付けられた日本の教育と繋がるものがあるのかもしれません。そうした教育が義経のような行動を生んでしまったのだとしたら、頼朝世代の多くがいなくなってしまった現在の日本の運命は恐ろしいです。

 

 

天皇の歴史の学び直しをしてから、義経を見る目がすっかり変わりました。しかし、日本人は義経が大好きです。ドラマや映画で義経役をやるのは必ず若い美男子と決まっていますし(実際の義経は出っ歯でチビのヒラメ顔と伝わり、絶世の美女と伝わる常盤御前の子と思えないぐらいですが、その父義朝が描かれている絵がサザエさんのアナゴさんのようですから父似だったのでしょう)、義経と弁慶といえば涙なしでは語れない物語となっています。また、義経が生き延びてモンゴルへ渡った伝説まであるぐらいです。ところが、国史の専門家に義経について聴いてみたら、やっぱり義経の評価は低いのです。確かに戦上手だったかもしれませんが、それだけです。つまり、義経は本当の日本の歴史を理解しているかどうかのリトマス紙のような存在なのです。義経については複雑な状況があったわけではありませんから、国史の本質がわかっているかどうかを判断しやすいのです。

 

 

本編は4:25辺りから

 

 

 

 

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