第七十八代二条天皇は平安時代末期の天皇です。

御父後白河天皇の第一皇子、御母は藤原師実の三男で大炊御門家の祖、経実の娘・源懿子(よしこ/いし)。高倉天皇は異母弟です。

康治二年(1143年)誕生。

 

諱は守仁(もりひと)。

在位は保元三年(1158年)から永万元年(1165年)。

生母が守仁親王誕生直後急死したため、祖父の鳥羽法皇に引き取られ、美福門院(藤原得子)の養子となって育てられました。既に近衛天皇の時代であり、同じく美福門院の養子には崇徳上皇の第一皇子の重仁親王がいらっしゃったので、皇位継承はないものとされ僧となるべく覚性法親王(鳥羽天皇の第五皇子)のおられる仁和寺に入られました。しかし近衛天皇が17歳の若さで崩御されたため、父の雅仁親王が立太子のないまま即位することになり、守仁親王も寺から戻され親王宣下の後立太子されました。

父の雅仁親王は「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評され誰からも天皇への即位を期待されていませんでした。また既に当時の年齢からは即位には遅いとみられる29歳だったのでもともと即位には遠い存在と思われてました。しかし賢いと評判の守仁親王が即位するには若すぎるため、守仁親王が天皇に即位するまでの中継ぎの為天皇になることとなったのです(後白河天皇)。父が即位された翌月には親王宣下を受け即日立太子、12月には元服し翌年には、美福門院の皇女、妹子内親王を妃に迎え、美福門院の全面的な支援を受けています。

後白河天皇が即位した後、鳥羽法皇崩御の直後に不遇な兄(崇徳院)との保元の変が起きます。この頃は武士が台頭してきた時代でしたから、保元の変は天皇同士、貴族同士、武士同士の戦いでもありました。この時、崇徳院は讃岐に流されています。


そしてわずか三年で後白河天皇が譲位され、守仁親王が即位(二条天皇)すると、後白河院と二条天皇の対立が深まります。というのも、幼い時に母を亡くし、美福門院の養子になっていた守仁親王と父の間の縁は薄かったからです。そこに、後白河院を巡る藤原氏同士の覇権争いの内部抗争や、武士同士対立を巻き込んだ平治の乱が起きます(平治元年:1159年12月)。二条天皇の乳母は平時子、夫は清盛でしたが、この時平清盛が熊野詣中の軍事的空白が狙われて乱は起き、急ぎ戻った清盛が乱を平定すると多くの軍事貴族や武士が淘汰されたため、治安維持、荘園管理他全ての軍事・警察権を平氏が掌握し、平氏の勢力は拡大していきました。なお、崇徳院の生霊が怨みを晴らしたという噂も流れたといいます。このとき源氏の源義朝は敗れ息子の頼朝は伊豆に流されました。

この後、清盛は正三位に叙せられ、次には参議に任ぜられ、武士として初めて公卿の地位に就きました。その後平家一門からも公卿や殿上人を出し、平氏政権が誕生、摂関政治から武家政治へと変化していくことになります。

後白河上皇には清盛の妻の妹である平滋子が入御され、後白河上皇の第七皇子憲仁親王(高倉天皇)が誕生しました。

清盛の三女の盛子は関白藤原基実の妻となり、藤原氏と平氏の結びつきも強まっていきます。

一方で、二条天皇と父後白河院の間は終生変わらず、後白河院が多年の宿願であった千手観音千体を安置する蓮華王院を完成させその供養を行った際、二条天皇も出席してくれると思っていたのに天皇の行幸はもちろん寺への勧賞もなかったので、院は涙を浮かべて悲しんだといいます。当時、賢主であるが孝道には欠けるという世評があったとも伝えられますが、これは親元を離れ育てられたことが大きく影響していると思います。なんといっても育ての母となった美福門院は後白河天皇の母である待賢門院をライバル視しており、その皇子である近衛天皇践祚のタイミングで後白河天皇の同母の兄である崇徳院が白河天皇の御落胤説が盛んに言われるようになったり、待賢門院が呪詛をしたと疑われることになったのも美福門院の仕業と言われています。つまり祖母の敵であったような者の元で育てられた二条院ですから、その影響が大きかったのではないかと思われるのです。

 

なお、二条天皇の時代に讃岐に流されていた崇徳上皇が崩御、後に怨霊となったと恐れられ慰霊が始まりました。

二条天皇は親政を続けましたが、病に倒れ、生まれたばかりの順仁親王に譲位後(六条天皇)23歳で崩御されました。

永万元年(1165年)崩御。

御陵は香隆寺陵、京都市北区平野八丁柳町にあります。


参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「旧皇族が語る天皇の歴史」
「天皇を知りたい」
「歴代天皇で読む日本の正史」


この時代は、平清盛のような武家台頭の時代として、あるいは藤原家内の権力争い、または貴族と武家の主権争いの時代として教わってきている方が多いと思いますが、歴史を天皇の目線で見ていくと違った見方が出来る時代でもあります。そもそも、いつの時代にも天皇がいたのが日本であったことに変わりがないのに、天皇の視点での歴史を教わらなかったことそのものがおかしいわけですから。そして、そのためには和歌が重要です。百人一首は、これよりも後の時代、後鳥羽上皇と親交のあった藤原定家が編纂しており、この時代の流れを題材にしたと小名木善行著書『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』では解説しています。そしてそうひも解かれた時代の大きな変化はこの前後の時代から大きく変わってきた時代を指しています。厚い本ですがとても読みやすくわかりやすい、そして目からウロコの知識が得られます。



ご歴代の天皇の歴史を知ることは、様々な人間関係を知ることでもあり、それは現代に生きる私達に様々な教訓を与えてくれるものだと思います。二条天皇は、「末の世の賢王におはします」とまで称賛されていますが、一方で「孝道には大に背けり」、つまり親不孝者ともいわれており、後白河上皇に涙を流させたりしていることが記録に残っています。また、後白河上皇に対抗するため平清盛を頼りにしていたことが、平家台頭の足掛かりとなっており、清盛に付け入るスキを与えています。歴史をみるとなにか問題が起きた時、そこに肉親間の問題があることは非常に多く、その問題の大半は親子の問題に起因します。兄弟間に問題がある場合も実はその前に親子の問題があったことが非常に多いのです。そして、二条院と後白河上皇の親子の問題も、元はといえば鳥羽上皇と後白河上皇の親子の問題から発生し次の代にもそれが引き継がれてしまったと言えるかと思います。つまり、待賢門院の孫を美福門院に預けた鳥羽上皇から始まってしまったのです。実の親に育てられても親子の問題が起きることがあります。それが親のライバルで親への陰謀を企てた人に育てられたら、問題が起きないはずがないのです。美福門院は妖狐玉藻の前にまで例えられているような妃だったのですから。

稽古照今とはよくいったものだと思います。

 

私が天皇について知るようになってから、最初の印象と一番変わって興味を持つようになったのが後白河天皇であり、この時代、平安時代の終焉となるこの時期はとても興味深い国史の時期の一つとみています。

 

 

 

親の敵であり、その親や叔父を悲劇の中に突き落としたような人に育てられたことこそが二条天皇の不幸であり、その人生を決定づけた、と思うと、日本人を敵視するような場所にいたこそが、悲劇となってしまった現代の悲劇を思い浮かべてしまいます。、

 

 

 

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