本日はみどりの日ですが、これは昭和天皇の誕生日である4月29日が平成になってから自然を貴ばれた昭和天皇にちなみ一時期「みどりの日」と呼ばれ祝日となっていたものが「昭和の日」と変更された際に本日に移されたものです。

 

先月、天皇陛下の稲のお種まきのニュースがありました。皇居での稲作は昭和天皇が始められたことに因んでおります。これは昭和天皇が宮中祭祀や神宮の神饌用の稲を自ら作られるために始められました。

 

竹田恒泰さんが神社新報の記事から天皇陛下のお種まきを解説されていますが、昭和天皇が昭和2年に始められたお田植、稲刈りを、上皇陛下がお種まきからされるようになさり、天皇陛下が引き継がれたものとなります。この時、昭和天皇26歳となられた年のことです。

 

上記動画で、飛鳥時代に始められてなかったのか、と竹田さんおっしゃられていますが、百人一首の一番歌、天智天皇の御製は天皇自らが稲刈りをされる歌となっていますので、この頃までは天皇がなさっていたのではないかと思われます。しかし、天智天皇の頃から激動の時代となっていき、天皇の公務が増えたため天皇自らなさることがなくなったのかもしれません。

 

百人一首の解説

 

この時代からさかのぼる継体天皇の時代には、「帝王自ら耕作し后妃自ら養蚕する詔」を出されています。

 

男が耕作しなければ民は飢える、女が紡がないと天下は凍える、だから帝王は自ら耕作して農を勧め、后妃は自ら養蚕をして桑を与える時間を過つなかれ、まして百官(諸役人)から万人に至るまで、農桑を怠っては富栄えることは出来ぬ、天下に朕が意を伝えよ。

 

つまり、この詔では継体天皇は自ら耕し、后妃は養蚕をすると語られており、役人を含め万人が働かなければ富栄えることは出来ないと語っていますから、天皇をはじめとする万人が稲作をされ皇后が養蚕をし働いていたことがわかります。

 

そもそも初代の神武天皇の東征は、水田での稲作を伝えるための旅であったといいますし、古墳時代の天皇は大土木工事により水田開発をはじめとする土地開発をされてきたとされていますから、古代より天皇自ら稲作をしてきたことが皇室の伝統であったことがわかります。

 

そして何といっても神話にみる斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅があります。これは天照大神が天孫降臨される瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に三大神勅と呼ばれる言葉を与えたうちの一つをいいます。なお残りの二つは天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅と宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅です。

 

斎庭の稲穂の神勅

吾(あ)が高天原(たかまのはら)に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の稲穂(いなほ)を以(も)て、亦吾(またあ)が兒(みこ)に御(まか)せまつる

 

これは「私が高天原で栽培している神聖な田の稲穂を我が子にお任せする」という意味です。

 

すなわち天皇陛下の御先祖となる天照大神自らが高天原では稲穂を栽培されており、稲作が神話から続く伝統であることを物語っています。

 

労働は罰であるという国もありますが、我が国が労働を貴ぶ国であるのは我が国の神様が自ら働くことからきています。そもそも漢字に「働」という字はありませんでした。これは我が国で作られた国字となりますが、わざわざ作らねばならぬほど働くことが当たり前の国であり、働くという概念があったからこそ作られた文字です。

 

我が国の祭祀をみれば、1年で一番重要な秋の収穫を奉告し祝う新嘗祭(神嘗祭)があり、それと対になる春の祈年祭も大切な祭りとしてあります。そして、生きていく上で一番大切なものが食であることから、食や五穀豊穣に関する詔が何度も出されています。そうした詔で最後に出されたものが、昭和天皇が終戦直後の昭和二十一年五月二十四日に出されたもう一つの玉音放送である「食糧難克服に関するお言葉」でした。

 

昭和二十年(1945年)は終戦の年ですが、この年は稲作が大凶作であり食糧不足が深刻化、栄養失調が続出した年でありました。そのため翌年の5月初めに「米ヨコセ」区民大会や食料メーデーのデモが起こり、GHQの最高司令官だったマッカーサーが「暴民デモ許さず」という声明を出しています。その直後に昭和天皇が出されたお言葉です。

 

祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。戦争の前後を通じて、地方農民は、あらゆる生産の障害とたゝかひ、困苦に堪へて、食糧の増産と供出につとめ、その努力はまことにめざましいものであつたが、それにもかゝはらず、主として都市における食糧事情は、いまだ例を見ないほど窮迫し、その状況はふかく心をいたましめるものがある。
これに対して、政府として、直ちに適切な施策を行ふべきことは言ふまでもないのであるが、全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがひに助けあつて、この窮況をきりぬけなければならない。
戦争による諸種の痛手の恢復しない国民にこれを求めるのは、まことに忍びないところであるが、これをきりぬけなければ、終戦以来全国民のつゞけて来た一切の経営はむなしくなり、平和な文化国家を再建して、世界の進運に寄与したいといふ、我が国民の厳粛かつ神聖な念願の達成も、これを望むことができない。
この際にあたつて、国民が家族国家のうるはしい伝統に生き、区々の利害をこえて現在の難局にうちかち、祖国再建の道をふみ進むことを切望し、かつ、これを期待する。

 

終戦の詔が庶民にはわかりずらかったため、わかりやすい言葉にかえてのお言葉でした。昭和天皇は終戦直後マッカーサーと会見し日本嫌いのマッカーサーの心を変えさせていますが、その後も何度も会談し、マッカーサーはアメリカ本土になんどもかけあって食糧物資を支援させ日本を食糧危機から救いました。これは昭和天皇が国民を思う大御心がマッカーサーの心を動かし、日本を救ったのだと言われています。

 

なお、この頃皇居では皇后陛下自らが芋を耕していたと伝わります。

 

何度でも聞きたい昭和天皇とマッカーサーの初会談の様子

 

「時代を動かした天皇の言葉」

 

「御歴代天皇の詔勅欣謹解」

 

「日本書紀」

 

「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」

 

戦後の我が国は、天皇陛下自ら毎年稲作をなさっていることを拝見しながらもどんどん農業を廃業し、御先祖様が苦労して開墾された田んぼや畑を宅地に変え、農耕地を減少させてきています。戦後我が国の自給率は年々落ちてきていますが、それでなくても日本の地形から造られる少ない農耕地も減らしてしまっています。

 

農学博士の稲垣栄洋氏の『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』という新刊本の2章は「完全リサイクル循環型社会ができるまで  大名が投資したイネという植物」となっており、その中に田んぼの項目がありました。

田んぼの価値を知る

田んぼは日本中どこにでもあるので当たり前の存在と思われているが、じつは田んぼがあるということは、すごいことなのだ。

何しろ、水を引かなければ田んぼにすることができない。しかも、水は高いところから低いところにしか流れない。水が上から下に流れるという、これだけの仕組みを利用して、すべての田んぼに水を入れなければならない。

田んぼの数を増やしてそれだけ広々とした田んぼを潤そうと思えば、用水路の傾斜をできるだけゆるやかにして、すぐに低い位置に水がいかないようにしなければならない。

あまりにありふれているので、田んぼしかないところは「何にもない」と悪口を言われる。しかし、そこに田んぼがあるということは、緻密な土木工事が行われたということなのだ。

水がないところではイネを作ることができないが、水がありすぎてもイネは作ることができない。日本には湿地が広がっていたが、泥が深く、大雨が降れば水に浸かるような場所ばかりであった。水が深すぎるとイネを栽培することができない。イネを栽培できる条件は、限られていたのである。

歴史を見れと、最初に田んぼが作られたのは、谷筋や山のふもとだ。それらの地形では山からの滲み出し水が流れ出てくる。この水を利用して田んぼを拓いたのである。田んぼは限られた恵まれた地形でしか作ることができなかったのだ。

戦国武将の多くは広々とした平野ではなく、山に挟まれた谷間や、山に囲まれた盆地に拠点を置き、城を築いた。これは防衛上の意味もあるが、じつは山に近いところこそが、豊かな米の稔りをもたらす戦国時代の穀倉地帯だったからだ。

イネを作ることができるのは、限られた特別な場所だった。そして、多くの地域ではイネを作ることができず、麦類やソバを作ったり、ヒエやアワなどの雑穀を作るしかなかった。限られた穀倉地帯を巡って、戦国武将たちは戦いを繰り広げたのである。

 

戦国時代に新たな水田が開発されるようになりますが、これは山城を造る技術の発達により、それを生かしてそれまで田んぼがなかったような山間部にも田んぼを造ることができるようになったからで、そうしてできたのが今その景色を絶賛される棚田です。

また江戸時代になって各地の大名が取り組んだのは平野部の新田開発です。それまでは平野部は河川が縦横無尽にある湿地帯でとてもイネを栽培できるような土地ではありませんでしたが、土手を造り河川の流れを制限し水路を整備していくことで何もなかった平野を田んぼに生まれ変わらせるかことができたのです。

現在わが国の平野の多くは都市開発が進んでいますが、その平野の多くは江渡時代に田んぼとして開発された土地だったのです。

 

以上、抜粋と要約ですが、せっかく苦労して開発してきたものを現代人の私たちはやすやすと別の物に作り替えてしまって、我が国の自給率を自ら落としてしまっているのです。

 

私は以前、地元の歴史について書かれた本で、私の生まれ育ったエリアが500年以上の歴史ある田んぼであったことを知り、それがほんの何十年かでなくなってしまったある企業の工場誘致でなくなっていたことにショックを受けたことがありました。一度消えたものを復活させるのは大変なことです。しかも、一度消えると、その周辺も変わりだしてしまいます。私が生まれた頃に一部消えた田んぼは、私が中学に行く頃には周辺の田んぼも全て消してしまっていました。そうしたことが日本中で起きています。ただの休耕地であれば、また復活させることもできるかもしれませんが、なくなった上にその上に別のものができてしまったら復活も何も関係なくなるでしょう。

 


終戦後GHQにその英語力で掛け合ったことで知られる白洲次郎が、戦争が始まった時始めたことは東京郊外の鶴川の農家を購入し農業をすることでしたが、それは戦争になれば食糧難が起こることがわかっていたからです。当時は周辺に多くの農家があったことから教えも請いやすかったことと思います。国際社会でなにかあれば各国はまず自国の利益を優先します。つまり世界同時に何かが起きたとき、外国はあてにならないということです。だからこそ自給率は重要なのです。

 

『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』には、現在の我が国の自給率について以下のように書かれています。

日本のエネルギー自給率は約12%。「衣食住」と言うが、食料自給率は37%、住宅建材に必要な木材の自給率は38%。衣類の自給率に至ってはほぼ0%である。江戸時代の日本は、これらをすべて自給していた。しかもこのすべてを植物から作り上げていた。

 

そら恐ろしくなりませんか?

なお、自給率計算方法により、日本の出し方がい海外と違うという問題がありますが、いずれにしても、日本の自給率が低いことだけは確かです。

 

つい先日、ある大型書店に行ったら時節柄か『民間防衛』のコーナーができていました。エスカレーター横で誰もが目にしやすいところにあった他、通常の棚のところも目立つように配置されたくさん置かれていました。やはり今の時期、民間防衛を意識する人がいやおうなく増えているのだと思います。

 

 

 

 

 

今では鶴川周辺も宅地ばかりとなっていますし、日本中多くの農地が住宅地に変わっている現在、周辺に農家がないところも多いことでしょうが、ありがたいことに多くの人が自ら発信する時代になっています。ブログや動画などで自ら情報発信されている方が何人もいますから、参考になるものもあるのではないかと思います。いきなり農業は難しくても家庭菜園レベルでも始められることは始めたほうがいいのではないかと考えています。

 

みどりの日、というあいまいな概念では農業のことまで行きつかないかもしれません。ただ昭和天皇について考えると、昭和天皇が倒られた年は記録的な冷夏の年で昭和天皇は米のことを最後まで気にされてらっしゃったことを思い出します。米とは、米を代表とする農業のこと、収穫のことを気にされていたということです。それは収穫という第一産業が食のために重要であるという基本的なことだからです。本日は、そうした国の根幹に関わることを改めて知り考えるのにふさわしい日ではないかと思います。

 

米作り開始の動画。こちらは山奥で20年自給自足生活をされている方の動画です。

 

長野の農家で生まれ育ち、大学の農学部を出て青年海外協力隊でも働いてきた農業コンサルタントの宮崎大輔さんの動画です。イチゴが御専門のため、イチゴの動画が多くアップされています。家庭菜園は食育、緊急時の備え、他プライスレスな価値があると語っています。

 

宮崎さんは大学で袋栽培の研究をされていたそうです。

 

園芸家の深町貴子さんは、昨日牛乳パック栽培のライブ動画を流していました。

 

こちらは色んな再生栽培に挑戦されている方の動画ですが解説画や日にちの経過が分かりやすい動画となっています。

 

自然農をされている方の動画。これは2年前アップされたもので、家庭菜園に興味を持たれている方が多いとのこと。こちらはある程度土地がある方向けですが、私結構この動画好きで見てます。父方、母方とも農家なのでこういう感じ懐かしいんですよね。

 

 

昭和の日のことが翻訳ブログで話題になっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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