私が初めて流鏑馬を見たのは鎌倉の鶴岡八幡宮で、その時は大勢の観客がいる中の隙間からしか流鏑馬そのものは見れなかったのですが、馬の疾走感などは味わえてもっとちゃんと観たい!と思ったのでした。

 

これは、その直前に会った人が、その場にいた人たちに鶴岡八幡宮で行われる流鏑馬を是非見たほうがいいと薦めていて、見たことがなかったので何人かで見にいったのでした。

 

それが4月のことで、その月末に鹿島神宮に行ったら、翌日が流鏑馬の日で準備をしていて、ああ~見たいな~と思いながら帰った覚えがあります。そして、流鏑馬って結構いろんな場所でやっているんだな、とその時気が付いたのでした。

 

そして、明治神宮でも行われていることを知り、毎年流鏑馬を見るようになりました。明治神宮では、結構目の前で疾走を見ることができてお気に入りの流鏑馬の場です。

 

流鏑馬の語源は「矢馳馬」つまり「ヤバセメ」が転じたものと言われ、「馬に乗って鏑矢を射流す」に由来すると言われています。

古来強弓を引き敵を遠矢にかけて射倒すのが武者の誇りであり、馬上から弓を射る騎射(うまゆみ)は、最高の武道として、武将たるもの弓矢を持って馬に乗ることが正装であったのです。

やがて騎射は、流鏑馬の礼・笠懸・犬追物の三つ物と言われるようになり、笠懸や犬追物は、騎射の稽古として用いられ、流鏑馬は、神事として神社に奉納して神慮を慰めるという行事として起こり今日に至っています。

起源は古く、第二十九代欽明天皇が国の内外の戦乱を治めるため、九州豊前の国宇佐の地において、神功皇后・応神天皇を祀られ「天下泰平・五穀豊穣」を祈願し、最も騎射に長じた者に馬上から三つの的を射させられた神事が始まりとされています。

 

第五十九代宇多天皇は、右大臣源 能有公に命じて「弓馬の礼」を制定させ、能有公はそれを娘婿の清和天皇の皇子である貞純親王に伝え、以来六孫王経基から、満仲、頼信、頼義、義家と「弓馬の家」と言われた源家が世々相伝し、八幡太郎義家の舎弟・新羅三郎義光からその子孫である武田・小笠原家に伝えられています。

 

鎌倉時代は、騎射の優劣が一所懸命の東国御家人の生死を決するものとなり、武田家も射手として活躍した流鏑馬は、頼朝によって武家作法のもと一射入魂の家伝の射芸を披露する場として幕府の正式行事として盛んに行われていました。

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これが今も鶴岡八幡宮で流鏑馬行事が行われている起源となったわけですね。

 


昨年の東京五輪の際には、開催直前に明治神宮で流鏑馬顔が行われ安全祈願が行われたのですが、その映像がアーカイブとしてアップされています。流鏑馬は開催のたびに、解説もされて初めて見る人でもわかりやすいのですが、映像だと繰り返し観れますので、確認しやすく分かりいのでお薦めです。

 

1分バージョン

5分バージョン

 

私の流鏑馬の知識、和の馬具の知識はこの流鏑馬会場での解説のみでしたが、この動画をみつけてチャンネルを確認したら、他にも解説動画がありました。やはり流鏑馬の魅力はその動きや馬などにありますので、映像で伝えるのは凄く有効的だと思います。私が見た流鏑馬では(明治神宮と鶴岡八幡宮だけですが)、和馬が大人気です。サイズが小さくて足も太く、走りは遅いのですがとても魅力的です。

 

日本馬術の立ち透かしは、和の馬具だからこそできる技だといいますが、その馬具を作る技術は途絶えており、新しい馬具は作れないと、以前聞きました。

 

こちらにも流鏑馬神事の流れがまとめられています

 

 

ここのところ、流鏑馬神事は無観客で行われていますが、また観に行けるようになるのを楽しみにしています。日本全国で流鏑馬は行われていますから、見る機会は思っていたよりも多いのです。せっかくの日本独自の神事を味あわない手はないですよね。

 

 

 

参考:2021年データ↓

 

私の大好きな漫画家、くらもちふさこさんの『花に染む』は、神社の隣で生まれ育った主人公が流鏑馬神事を見て弓道を始める男の子みたいな女の子が主人公。ラストは流鏑馬で終わったので、流鏑馬に始まり流鏑馬に終わる物語となっています。表紙絵の中で、一番流鏑馬感があるのがこの2巻。このブログは本カテゴリーなので、この表紙をサムネにさせてもらいました\(^o^)/

流鏑馬やったら似合っただろうなあ~。

 

 

 

 

 

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