本日は旧暦では1月18日ですが、元慶九年一月十八日(885年)、源定省(さだみ)の第一王として源維城(これざね)が誕生しました。旧暦では、1137年前の本日のことです。

※改暦は何度もありましたのが単純に旧暦にあてはめています。


臣籍降下していた源定省は2年後皇籍復帰し、父帝光孝天皇の崩御により即位されました(宇多天皇)ので維城も皇族となり5歳の時に親王宣下を受けその翌年には敦仁と改名されました。

 

そして13歳で立太子、宇多天皇の譲位により即位されました(醍醐天皇)。

 

醍醐天皇は、臣籍に生まれ即位された唯一の天皇です。現在でいうなら、皇室離脱して民間人になった元宮家に生まれ、その家が皇室復籍してまた宮家になったのち、その家から即位したような感じでしょうか。(当時宮家はまだありませんけれども。)ただし、宇多天皇が源定省として臣籍降下していたのはたった3年間であり、その間に誕生されています。

 

この立太子も即位も宇多天皇は、菅原道真だけに相談して決めたといわれており、藤原氏の反発を招きこれが後に菅原道真追い落としの遠因ともなったといわれています。

 

昌泰四年正月二十五日、宇多上皇が比叡山や熊野三山に参詣されている間に、菅原道真が娘婿に当たる斎世(ときよ)親王を即位させようとしていると讒言され、道真は左遷されました。宇多上皇が急遽内裏に向かわれましたが締め出され、そんな中で道真の処分は決まったのです。

 

大宰府へ左遷された道真は失意のうちに亡くなりましたが、その後、道真失脚を狙った藤原時平は39歳の若さで急死し、醍醐天皇も病気がちとなり道真の怨霊の仕業と言われました。

 

そして延長八年六月二十六日、清涼殿落雷事件が発生しました。内裏の清涼殿は天皇が日常生活を行う所ですが、そこに落雷があり居合わせた公卿数人が焼死したのです。天皇の居所に落雷があったのは衝撃的なことでしたが、これも道真の怨霊の仕業と言われたのです。

 

この時既に道真の死去から既に27年が経過していました。天皇はこの後病がちとなられ九月二十二日に寛明(ゆたあきら)親王(朱雀天皇)に譲位されその七日後出家されたその日に崩御されています。

 

醍醐天皇の時代はのちに延喜の治と褒めたたえられた善政でしたが、一方で道真の怨霊が発生した時代でもありました。


菅原道真の霊を鎮めるため北野天満宮が創建され、現在に続く天神信仰はこの時代に形作られていきました。

 

北野天満宮のHPのご由緒にはこうあります。
北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満天神」の神号が認められ、寛弘元年(1004)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室のご崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきました。

 


日本には怨霊信仰があり、崇徳天皇、平将門などの天皇、または天皇の子孫の怨霊が最大の怨霊として恐れられ、また鎮められ最大の神様に転じていますが、そんな中で民間の出で最大の怨霊から神様へ転じたのが菅原道真公です。

 

醍醐天皇は、後醍醐天皇が後加号を自ら名乗ったほどのお方でしたが、菅原道真公が怨霊になったとして、後には地獄へ落ちたとも描かれてしまっています。そのためこのことは、「聖代の瑕」ともいわれています。

 

また讒言というものがどいうものか、いつの時代も変わらずあるものですから考えさせられる話ともなっています。聖徳太子が十七条憲法で人の妬み羨みを戒めるように書かれてから、現在まで人の業の変わらないことがよくわかります。だからこそ、こうしたことは伝え続けなければならないのだと思います。

 

醍醐天皇の諡号は、醍醐寺から来ていますが、その醍醐寺にある五重塔は、朱雀天皇が醍醐天皇の菩提を弔うため建立着工したもので、村上天皇の時代に完成した現在京都最古の木造建築だそうです。毎月29日には、醍醐天皇の月命日に五重塔が開扉し法要が行われています。

 

参照:歴代天皇で読む日本の正史

 

 

 

 

これも根本的な根は同じだと考えています↓

 

 

 

 

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