第八代孝元(こうげん)天皇は古代の国作りの時代の天皇です。


御父は孝霊(こうれい)天皇、御母は細媛命(ほそひめのみこと)。

 

御名は、大倭根子日子國玖琉命。(おおやまとひこくにくるのみこと)

 

孝霊三十六年に十九歳で皇太子になり、七十六年に孝霊天皇が崩御され孝元天皇となりました。


孝元四年の春には都を軽に移しています。(境原宮)


孝元天皇は欠史八代(第二代から第九代までの天皇を非実在とする説)のうちの天皇として実在が疑われてきましたが、昭和四十三年発見の埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘に「意富比危(つちへんに危)(おおひこ)」と書かれていたので孝元天皇の皇子である大毘古命の実在が確認されました。したがって、その父である孝元天皇も実在したと考えられるようになっています。

 

また欠史八代については、実在する説ももちろんあります。その中には欠史八代に事績や偉業がないのは、それだけ平和な時代だったからだという証拠だという説があります。平和な時代とは強いて語るようなこともない平凡な毎日の繰り返しだからです。また一方で、大きな事件はなかったのだけれども建国の時代で忙し過ぎたのだという説もあります。

 

「建國の正史」の著者、森淸人氏は、古事記において最も力を注いでいるのは御歴代の系譜であり、日本書紀においても皇室の系譜と皇位継承の記事がほとんど各巻の中心をなしていることから、それしか記載がないから史実でないというのはおかしいと書かれています。つまり御事績が少ないのではなく、必要最小限の御事績しか書かれていなかったのが欠史八代の時代であるということになります。つまり欠史八代どころか、地元との地盤固めの史実がこれだけ記録されているということになりますから、欠けてなどいない時代であるというわけです。

 

「天皇の国史」の著者竹田恒泰氏は、建国の時代である古代と今に繋がる近現代が重要であるとして多くの頁を割いています。しかし古代は文字の時代ではなかったため、考古学他科学的な検証もされておりとても面白い内容となっています。その中には「欠史八代は欠史ではなかった」という段落もあり、いくつかの説への反論とやはり血縁関係を結ぶという重要なことを行っていた時代であると書かれています。神代・先史時代に177頁を割きながら、崇峻天皇から後白河天皇になるまでの平安時代末までの頁が123頁ですから、いかにこの時代を注視しているかがわかるかと思います。

また竹田恒泰さんと学生さんたちで作成している『不合格教科書』においても「神代・原始」や「古代」に多くの頁を割いています。

 

いずれにしろこの時代の天皇は、婚姻により地盤固めを着実にされていました。皇后は饒速日命の四世か五世孫の大水口宿禰の娘、鬱色謎命(うつしこめのみこと)で開化天皇の母となられます。また妃の伊香色謎命は物部氏の祖である大綜麻杵命の娘で後に開化天皇の皇后となり、崇神天皇の母となられるのです。


紀元前一五八年崩御。

御陵は劔池嶋上陵、奈良県橿原市石川町にあります。

 

この時代は記紀の時代であり、日本書紀や古事記に書かれていますが上記の通り記載は多くありません。また以下の書籍もこの時代を知るのにわかりやすい解説書です。

 

国造りの時代をそれぞれ別のアプローチで紐解く2冊

 



第五十五代文徳(もんとく)天皇は平安時代初期の天皇です。


御父、仁明天皇の第一皇子、御母は藤原順子。


天長四年(827年)生。


諱は道康(みちやす)。

 

在位、嘉祥三年(850年)~天安二年(858年)。


仁明天皇は、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子に立てていましたが、承和九年(842年)承和の変で恒貞親王は廃せられ、代わりに仁明天皇の第一皇子である道康親王が立太子しました。仁明天皇が病になられたため譲位により即位、その直後に上皇は崩御されました。

 

文徳天皇は聡明で深く人物の真価を見抜かれ、つとめて政務にを注がれましたが、生まれつき病弱で外舅で右大臣である藤原良房に政務を委ねられることが多かったといいます。

天皇は第一皇子惟喬親王を可愛がって期待しており皇太子に立てるおつもりでした。しかし、即位した年、右大臣藤原良房の娘明子(あきらけいこ)との間に惟仁親王が産まれ、実力者である良房に遠慮し惟仁親王を皇太子に立てましたがこの時まだ生後八か月でした。これは前例のないことでしたので、いかに良房の権勢があったかを示す事例となっています。これには、自身が即位する経緯となった恒貞親王に起きた悲劇も頭にあったことでしょう。天皇が妃の生家に遠慮することは、この後の天皇にもみられ、藤原氏の権勢が拡大していきます。

 

文徳天皇の時代には、民の生存を支える山野を富豪が占有することを禁止し、富豪への富の集中を避けさせました。また諸国の国司・郡司には堰や池を修築させ農業振興を図られました。さらに、京畿内で天然痘が流行った時には康調の未納を許し、医薬を提供される緊急福祉政策も執られています。そして京中に洪水があった時には、穀倉院等の米穀や塩を窮民に分け与えています。こうしたことは、仁徳天皇をはじめとする古来からの日本の伝統とも言える政策といえます。

 

大宰府に新羅人が30人漂着した際には、既に帰化した新羅人が何度も反乱を起こすので帰化の制限のために帰国させており、古代から変わらない半島の人々の姿があります。

 

現代の政策に通じるものが多く、いずれの政策も現代の私達も見習うべきところが多いことに驚きます。


八五八年八月、文徳天皇は突然病気になり三十二才の若さで崩御。


次の清和天皇は幼帝のため代わりに外祖父である藤原良房が摂政となり摂関政治が始まりました。

 

藤原氏の栄華をたたえた「大鏡」には帝紀が書かれていますが、その始まりは文徳天皇です。文徳天皇が藤原氏の栄華の始まりだからです。藤原良房が藤原氏として初めて太政大臣にまでなったのは文徳天皇の時代のことです。

 

文徳天皇は、藤原良房の圧力で、大内裏の東部にある東宮雅院や嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して遂に一度も内裏に居住することはなかったといいます。また惟喬親王の立太子を望まれており、その立太子を条件に惟仁親王への譲位を図りますが、惟喬親王の身に危機が及ぶことを怖れた左大臣源信の諌言でとりやめたといいます。そうした中での急な崩御であることから、暗殺説があります。実際に暗殺されたかどうかは別として、文徳天皇の諡号には「徳」の字が使われていることから、お慰めするための慰霊の必要があったということなのかもしれません。

 

 

御陵は田邑陵、京都市右京区太秦三尾町にあります。御陵の場所から、田邑帝とも呼ばれました。

 

 
参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「現代語古事記」
「全現代語訳日本書紀」
「天皇の国史」

「建国の正史」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎