第七十三代堀河天皇は平安時代後期の天皇で、末代の賢王と讃えられた帝です。  

御父は白河天皇、御母は関白藤原師実の養女、皇后賢子。(実父は右大臣源顕房)

御名は、善仁(たるひと)。

承歴三年(1079年)生。

在位、応徳三年(1086年)から嘉承二年(1107年)。

堀河天皇の父白河天皇は、幼少時代その父(後三条天皇)が藤原家の権勢の中冷遇されているのを見、自身も冷遇の中育っています。その父、後三条天皇の御希望が白河天皇の異母弟達の即位であり、白河天皇の即位は中継ぎとしてのものでした。

しかし異母弟の実仁(さねひと)親王が応徳二年(1085年)に薨去されると、白河天皇はその翌年寵愛の深かった中宮賢子(けんし)との間の第二皇子である善仁親王を皇太子に立て譲位し、自らは上皇となられたのです。

短期間での立太子・即位は、異母弟の輔仁親王に皇統が移ることを避けるための白河上皇の強い意志によるものでした。藤原氏が勢力を後退させる中政治の実権を取り戻し、自らの直系による皇位継承を図る意図があったのです。またこれは過去の例からも皇太弟に継承されると皇統が分裂し争いの要因になることから賢明なことだったともいいます。また摂関政治では、外戚の藤原氏により次の天皇の人選が左右されましたが、院政では上皇が次の天皇を決定することになるため皇室の家長として君臨し政治の実権を摂関家から取り戻すことができました。

即位した堀河天皇はまだ八歳。白河上皇が後見の為自ら政務を執りここに院政が始まりました。堀河天皇は病弱でおとなしい性格であったため、崩御するまでの二十二年間、政治の実権はほとんど白河上皇が握られていたといわれています。

しかし白河天皇は堀河天皇が15歳になり成人した頃、後見を終えられていた時期がありました。それまでの関白藤原師実に変わりその息子の藤原師通が関白になり、天皇と関白は協力して「天が下治まりて、民安く世のどかなり」といわれるほどの善政を行い末代の賢王と称えられたといわれています。これは天皇と関白の良好な人間関係によることが大きいといえます。堀河天皇はその誠実な人柄から宮廷内の人望を集めたと言います。そしてまだ若い天皇を、関白が上手く導きうまく行っていた時期があったのです。

しかも白河上皇は、寵愛する最愛の娘である媞子内親王が21歳の若さで薨去されてしまうと悲嘆のあまり二日後には出家し法皇となられるなど、政務への興味は全くなくなっていた時期でもありました。

ところが、藤原師通が関白になってわずが五年で亡くなると後を継いだ藤原忠実が堀河天皇を補佐することが出来ず、堀河天皇は法皇に相談することが増えていくのです。そして摂関政治が機能停止になってしまったことから、法皇自ら直接政務を執られて政治的権限を掌握され、まだ若い堀河天皇の親政はできなくなってしまいました。

こうして活躍の場を奪われた天皇は、和歌や管弦の文化面に情熱を傾けるようになります。

それでも堀河天皇がご長寿であれば、また活躍の場あったかもしれませんが幼少の頃から病弱であられた天皇は、病がちでもあり満年齢二十八歳で崩御されてしまったのです。

堀河天皇の御世には、受領階級や武家出身の院近臣の武士を用いての親政政治が行われました。その後これらの武士たちが院(法皇)の警護役としてとりたてられ北面の武士となりその地位を高めていきます。そんな中、平正盛・忠盛(清盛の父)父子が北面武士の筆頭となり、それを機に院庁での平氏の地位が高まります。これが武家の台頭の先駆けとなり、長い目で見れば摂関政治から武家政治に移っていくきっかけとなりました。つまり親政政治を行うために引き入れた武士団が勢力を持つことになったのです。

堀河天皇の時代、後三年の役が起き奥州藤原氏が始まり、その祖である藤原清衡は奥州平泉に中尊寺を建立しました。


またこの頃、「今昔物語集」が完成しています。

現在、白河上皇の影に隠れているような堀河天皇ですが、エピソードがいくつかあります。

「読経口伝明鏡集」によれば、堀河天皇の時代に異国から来朝した人々の中に、全く意味のわからない言語を話す僧侶がいました。しかし堀河天皇はこの僧侶の言葉を理解しようと望まれました。そこで急遽朝廷に呼び寄せられたのが明覚でした。加賀の薬王院温泉寺から馳せ参じた明覚は、天皇の御前で異国の僧侶と半日に及ぶ問答を命じられたといいます。

朝廷にいた誰もその言葉の片鱗さえ理解できなかったのだから、大陸や朝鮮の人ではありませんでした。この外国僧の言葉はサンスクリット語だったのです。

この日の出来事に喜んだ堀河天皇は、中国の高僧不空が、「不空三蔵」と名付けられたのを模して、明覚を「明覚三蔵」と呼ぶようになったといいます。

「讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)」は、堀河天皇の寵愛を得た藤原長子が残した日記ですが、こちらにはその死について生々しく記されています。曰く、天皇は臨終の間際まで悶え苦しみ、念仏や神仏の名前を称えてはその力にすがろうとした、というのです。

堀河天皇が崩御すると、その子の第一皇子宗仁親王が五歳で即位し(鳥羽天皇)、またその後には、その子の顕仁親王が次に即位(崇徳天皇)し、白河法王が堀河・鳥羽・崇徳の三代に渡り「治天の君」として君臨する院政という新たな政治形態を行った始まりとなりました。その時代の幕開けは堀河天皇の即位から始まったのです。

嘉承二年(1107年)七月十九日堀河殿で崩御し、「堀河」と号されました。貴賤男女に慕われた堀河天皇の崩御の際は、次の間に控えていた近臣や女房が泣き惑い隔ての障子が地震の時のように揺れ動いたといわれています。堀河天皇が賢王と讃えられたのは、多くの人々から慕われていたからこそでもあったのです。

御陵は後圓教寺御陵、京都市右京区龍安寺朱山、龍安寺内にあります。

 

 

なお成人した堀河天皇が「末代の賢王」と評されるほどの賢帝として知られたというのは、「続古事談」によります。これは、「末法の世に現れたすばらしい名君」という意味で「末代の賢王」と称えらたものです。

末法の世とは、釈迦の死の1500年後にやってくるという釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期のことでで、日本においては永承七年(1052年)に末法の世に突入すると考えられていました。 この頃自然災害や戦乱が多かったので人々はこれを信じていたといいます。現代でも20世紀末には、同様のことが言われましたが、千年前ではもっと信じる人が多かったことと思います。

この頃は武士が台頭してきた時代でした。また僧侶が暴れまわった時代でもあり寺院同士の争いや腐敗が蔓延していた時期でした。そんな治安の乱れから民衆が厭世的になっていた時期だったため末法思想が広がっていたのです。

そんな末法の世に突入した永承七年から二十七年後の承歴三年(1079年)七月九日に誕生されたのが善仁(たるひと)親王でした。実は、本日は明治期に定められた堀河皇の祭日に、旧暦での天長節が重なっている日でもあります。本日は旧暦の7月9日、942年前の本日が堀河天皇が誕生された日ということです。

※旧暦に単純にあてはめています。

 

なお、祭日は明治年間に新暦で固定されているため、旧暦でみていくと今年のように重なる日もあるわけですが、西暦でみると誕生日が8月8日、崩御された日が8月9日で、1日違いとなっています。


ところで、賢王とまでいわれた堀河天皇の資質はどこで育まれたのでしょうか?

実はそこに、天皇自ら望まれた篤子(とくし)内親王のご存在があったといいます。

天皇が十三歳になられた頃、そろそろお后様をということで天皇にお望みを伺うと明瞭に返された返事が「ただ四の宮を」だったそうです。

「四の宮」とは篤子内親王のことで、白河天皇同母の妹宮です。篤子内親王は数え十四歳で白河天皇朝の賀茂齋院に卜定されましたが、父君の後三条院が崩御されたためわずか二ヶ月で退下し、「女四宮」と呼ばれて父君を弔い静かに過ごされてきた方です。

当時の習俗としておじ・おばと甥・姪の婚姻は珍しくなかったのですが、年齢差が十九歳とあまりにも大きく、篤子内親王は入内の夜もまだ躊躇されていたと伝わります。しかし、幼少の時に母を失い乳母に囲まれ身近に年頃の姫君もいないまま育った孤独な少年天皇からしてみれば、美しく優しいおば様は誰よりも慕わしい女性であり、また良かれ悪しかれなんらかの意図をもってくる人々に囲まれている天皇が安らげるご存在だったからこそ年齢差など関係なく望まれたのだといいます。また篤子内親王も、入内されてからは遠慮や躊躇を捨て毅然として少年天皇の補導、教育を他の誰にもできない愛情をこめて行われましたが、それは年上の内親王なればこそで、もし摂関家の姫君だったらこのような関係は築けなかったことでしょう。

皇子誕生の祈願を天皇と中宮となられた篤子内親王が行われていますが、中宮四十歳を目前とした頃白河院の意向で内親王の従妹にあたる藤原実季女苡子が入内し、康和五年に後の鳥羽天皇となられる皇子が生まれました。(苡子は産後の経過が悪く薨去)

こうした中も天皇と中宮の愛情は変わらず成長された天皇は、独自の見識で親政を行おうとされたのです。残念なことに天皇は病弱でしたが、四十歳を過ぎた分別盛りの中宮がいつも天皇の傍らにいらしたことは、白河法皇にとっても貴重なことだったといいます。天皇は風病を病み、なかなか快癒できませんでしたが、この快癒を祈る泰山府君祭を行うにあたりその執行裁可の判を加える者がいない時がありました。この時、中宮が代わりに行っています。これは中宮が内親王なればこそ許されたことであり、また天皇・院・重臣の信頼もなければできなかったことですから、いかに中宮の存在が大きかったかがしのばれます。

なお堀河天皇には、音楽の才があり管絃は他に比類ないほどの腕前だったと伝わります。また和歌にもすぐれ、「堀河百首」や「堀河院艶書合」が編まれていますが、こうしたところにも中宮の教導があったといいます。

参照:内親王ものがたり、他


御歴代の天皇の中には、人との繋がりがその評価を決定づける、そうしたことがただただ伝わる天皇もいらしたのです。
 

参照:「宮中祭祀」
「天皇の全て」
「旧皇族が語る天皇の日本史」
「日本の天皇」
「日本語の奇跡」
「神国日本」
「歴代天皇で読む日本の正史」

日本の歴史は言葉や文字の歴史でもある。日本語の素晴らしさが再認識される本、「日本語の奇跡」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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