第二十六代継体天皇は古代、奈良時代の天皇です。


御名は袁本杼命(おほどのみこと)、男大迹王(おおどのおおきみ)。


御父は応神天皇の五世の孫、玄孫の彦主人王(ひこうしのおおきみ)、御母は越前の豪族三尾氏の娘で垂仁天皇の七世の孫、第十一皇子・磐衝別命(いわつくわけのみこと)の六世孫に当たる振媛(ふるひめ)。


彦主人王は、男大迹王がまだ御幼少の頃薨去されましたので、振媛は実家の高向(福井県坂井市)に帰京して男大迹王の養育をされました。

 

第二十五代武烈天皇は皇子も皇女もなく崩御されました。そこでお迎えしたのが応神天皇の五世の孫である 男大迹王でした。最初は辞退しましたが、懇願されてようやく即位されたといいます。


 

 

即位されたのは河内国交野郡楠葉宮(現在の大阪府枚方市の樟葉)で、ここで大伴大連が、仁賢天皇の皇女、手白髪皇女を皇后にされるようお願いしました。手白髪皇女の母は雄略天皇の皇女、春日大娘皇女です。

 

交野天神社内にある楠宮跡

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すぐそばにある鏡池

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なお即位された時五十八歳であった継体天皇には、尾張連草香の娘の目子媛という妃があり、勾大兄皇子と檜隈高田皇子がいらっしゃっいました。

 

即位五年後、天皇は都を山城の筒城(つつき)に遷され(京都府京田辺市)、またその七年後には乙訓宮(おとくに)に遷されています(京都府長岡京市)。さらに八年後、磐余玉穂宮に遷都され(奈良県桜井市)、三度目の遷都でようやく奈良の地に入られました。


天皇は自ら耕作し、皇后も自ら養蚕し、農業や養蚕の重要性を民にしらしめたので、土地が肥え五穀豊穣の世となったと伝えられます。皇后自ら養蚕されることは現在の皇室の伝統ともなっています。

 


継体二十五年に病にて八十二歳で崩御。崩御の日、勾大兄皇子に譲位(安閑天皇)されており、譲位の記録としてはこれが初の例となります。ただし崩御直前の譲位のため形式てなものであり、これは嫡子ではなく長子がまず跡を継いだためこういう形にしたのではないかと思われます。ただし安閑天皇は即位された時既に六十六歳でしたので、僅か四年弱で崩御され弟の檜隈高田皇子が次に即位しました(宣化天皇)。また宣化天皇も、御歳七十歳で僅か三年で崩御され、ここでようやく継体天皇の嫡子である天国排開広庭命が即位することになりました(欽明天皇)。


継体天皇は何代も遡った系統での即位であることや、即位から奈良へ入られるまで二十年もかかったこと等から、注目度の高い天皇です。一方で何代も遡ってまでも皇統を維持したことは、皇統がいかに大切であるかを物語っている天皇でもあります。


御陵は三嶋藍野陵、大阪府茨木市太田三丁目にあります。

 

継体天皇は越前で育ち生活をされており、天皇へ即位するために大和へ立たれる時に生き御霊を鎮められた足羽神社は福井県に越前開闢の祖神として今も信仰が篤いお社です。また同じく福井県にある三國神社でも継体天皇を御祭神としてお祀りしています。

大阪府枚方市にある交野天神社には貴船神社の末社があり、継体天皇の樟葉宮跡と伝えられています。

 

 

 


能の花筐(はながたみ)は、大迹皇子が即位のため福井を離れることから始まる話です。

 

福井県あわら市に伝わる民話からは、応神天皇の皇子であった仁徳天皇など古代天皇が力を入れた水田のための大土木工事を継体天皇も天皇となる前に当時の福井県で行われていたことがわかります。古代からいかに稲作が大切であったか、神話に繋がる伝承です。

 

参照:「宮中祭祀」

「歴代天皇事典」
「古事記」
「天皇のすべて」
「歴代天皇で読む日本の正史」

 

 

神話から続く稲作伝承が理解しやすくなる本

 

 

 

 

 

 

 

 

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