平成9年12月24日(1997年)、世界の映画界は偉大な俳優を失いました。

 

この日、三船敏郎さんが亡くなったからです。チャップリンは12月25日に亡くなっていますが、三船さんもクリスマスに亡くなった時はなにか不思議な繋がりを感じてしまいました。世界でも有名な俳優がこうした日に亡くなるということが印象的だからです。

 

三船敏郎さんは、黒澤明監督の黄金時代のほとんどの作品に主演、出演されていた映画俳優で、黒澤明監督以外の作品でも多くの作品を残しています。しかし、何といってもやはり「羅生門」の俳優、と私はいいたいです。このブログでは年に1回は必ず取り上げている映画だからです。これほど思考を刺激する普遍的な映画は他にないと思います。」そして、この映画から日本映画の黄金期は始まりました。この映画のお陰で日本人は自信を取り戻し、どんどんいい映画を創り出していくきっかけとなったのです。つまり、黒澤明神話も三船敏郎さんの国際スター化もこの映画から始まりました。

 

三船さんのひょうきんさが表れている写真、映画の内容とかけ離れた様子のキャストと監督

 

 

現在は多種多様な映画が作られていますが、いつの時代も映画のバイブルとされているのが黒澤明の映画です。ジョージ・ルーカスは最初黒澤明の映画を薦められても観なかったといいます。しかし観た後その世界観が変わったといいます。今の感覚で映画の写真を見ると古臭く感じるかもしれません。しかし映画は観ないとわかりません。そしていい作品は時代を越えます。私は同じように感じていたオーソン・ウェルズの映画を観た時に、その時代を超えた普遍性や面白さに感動したことがあります。確かに映画によっては当時は凄かったかもしれないけど・・・、という古い映画が存在するのも事実です。しかし、黒澤明の黄金期の映画、つまり三船敏郎さんが出演されている映画から入れば間違いありません。私は黒澤明の黄金期の映画に外れはないと考えています。スター・ウォーズは「隠し砦の三悪人」を参考にしたことが有名ですが、この映画も傑作です。黒澤明の映画の名場面と言われるシーンは全て三船敏郎さんが演じたもので、「隠し砦の三悪人」にもそのシーンがあります。下記予告編にも登場する馬で敵を追いかけて討ち取るシーンです。こうしたシーン全て三船さんご自身が演じており、三船さんの身体能力が高かったことがわかります。

 

 

三船さんは、大正9年(1920年)4月1日生まれですから、今年は生誕100年の年でもあります。

以下は三船敏郎さんのお孫さんが確かアップしているツィート。この映画はお孫さんのプロデュース作品です。なお、サムネの真ん中に映っているのは息子さんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三船プロのツィート↓

 

三船敏郎さんについては多くの事が語られており、本もたくさんあるようですが私はこの本を読みました。実はこの本を読むまで、三船さんの私生活についての詳細は知りませんでした。だから三船さんが兵隊さんだったこともこの本で知りました。考えてみればこの時代の男性には珍しい事ではないのですが、そうしたことも全く知りませんでした。終戦当時未だ25歳で古参兵だったといいます。兵隊の年齢層というものがよくわかる話です。三船さんは大陸生まれで、そのまま大陸で兵隊になったといいます。そして家が写真屋だった為写真の技術をかわれて兵隊生活の最後は特攻隊の方々の写真を撮っていたといいます。靖国神社にある英霊の写真の中には三船さんが撮られたものがあるということだと思います。そして、そうした技術があったから生き延びたのだということですが、お酒を飲むと息子さんにそうした話をされたといいます。そうした想いがあるから、上記の戦争はもうこりごり、という言葉が出てくるのでしょう。また、青島生まれであったことが、三船さんの国際感覚を養っていたともいいます。

 

三船敏郎さんは晩年になってからも1年で普通の大きさの段ボール箱が一杯になるほど海外からのオファーが来ていたそうですが、三船さんが出演を決める要素は5つあったそうです。

1.日本人を茶化さない

2.三船プロの運営に支障をきたさない

3.世界各国のオールスターが出演し、その日本代表として指名

4.俳優三船敏郎単体より、三船プロとして仕事を受けられるか

5.製作サイドの誠意ある交渉

 

2と4は、三船さんの会社についてですが、それ以外は今でも通じる普遍的な仕事の姿勢だと思います。最近国際的に活躍する日本人俳優にこうした意識はあるのだろうか?と思います。海外に出たら一人一人が外交官といいますが、三船敏郎さんは一日本人として海外でも仕事をされていました。

 

 

私は基本、俳優の仕事はその作品、つまり演技で観るものであって私生活は関係ないと考えています。ただ、その演技にその俳優の内面が出てくるという面もあり、この本を読んで三船敏郎さんの背景を知ってあらためてその演技を見直した面があるのは否めません。

 

またその生き方が、現在の私達の参考にもなるのではないかとも思えています。つまり、日本人としての考え方、という面です。本を読んで知りましたが、三船敏郎さんはとても生真面目で、きれい好きで、礼儀正しくて、しかも自分でなんでもやってしまう器用な方で、料理も裁縫もできました。終戦時には、毛布を自分で断ったコートを着て帰って来たらしく、その写真を見て凄く驚いたほどの出来具合です。そして、事務所にお客が来ると自ら迎えたといいます。また自宅に行ったら庭の芝が殺陣の練習で一か所だけはげており、いかに地道に練習していたかも書かれていました。そうしたことの積み重ねが作品に生かされていたわけです。こうした話を読んで私が感じたことと言えば、これって昔からよくいる日本人の姿じゃないかと。全然違和感がありませんでした。たった一つ、お酒の飲み過ぎだけが問題だったようです。

 

今国際的に活躍する俳優が増えてきており、これからも増えるだろうと思うと、そうした時に、三船敏郎さんがどのように仕事と向かい合ってきて、成果を上げまた海外からの尊敬を勝ち取ってきたかを知ることは重要に思えます。

 

私は三船敏郎さんを越える俳優は少なくとも百年ぐらいないのかもしれない、とずっと考えていました。海外でただ仕事ができればいいというものでもありませんし、海外で活躍してもがっかりする人ばかりだと思っていたからです。しかし、その三船敏郎さんをもしかして超える可能性があったのが三浦春馬さんだったとその才能を惜しんでいます。春馬さんは日本人として海外で仕事をするために色んなことを勉強している、学んでいると語っていました。そしてその演技力、身体能力、歌唱力、そして語学力にも磨きをかけていました。そして容姿も良く、身長も低すぎなかった。そして、海外の演劇人には既にその才能を認められていた。しかもまだ30歳。その上考えることの基盤に日本人がある。これだけ将来性があって、真の日本人らしい日本人がでてきたのは、ここ何十年かで初めてじゃないでしょうか。

 

それなのに・・・。三船敏郎さんの命日なのに、三浦春馬さんの事を今日も考えてしまいます。

 

春馬さんは才能がありながらも、冷遇されいい作品が回ってこなかった。しかしそうした中でも、いい仕事を残して来ました。作品に恵まれていたらどんな作品が残されていただろう?と考えるだけでもったいないと思います。

 

そういえば、三浦春馬さんも自分で料理して、生真面目で礼儀正しい人だった。地道に演技のための練習を積み重ねている方だということは、色んなインタビューやスタッフ、キャストの話からわかります。

 

ところで、先日知りましたが春馬さんが子供時代以降初の主演映画「キャッチ ア ウェーブ」で三船敏郎さんのお孫さんと共演していました。なんかそれだけでも嬉しく感じてしまいました。

 

三船敏郎さんは、晩年忘れ去られたスターといった感じがあり、亡くなった時の扱いもそれほど大きくなかったように記憶しています。ところが、海外では大きく報じられ多くの人が弔辞を寄せたといいます。そもそも上記したように、最後まで海外から出演依頼が絶えなかった。それを冷遇してしまったのは、日本の業界ではないか、と思います。上記の本には、ビッグスターを社長にすえ芸能事務所を作らせたことがそのビッグスターを潰すことになったと書かれていましたが、確かに三船敏郎さんをはじめ、萬屋錦之助さん、勝新太郎さん、石原裕次郎さんなど、その事務所があるための制約が多かったと聞いていますし、その事務所の維持や負債で身動きとれなくなったりしたことも多かったといいます。もしかしたら、これも何かの策略だったのではないかと最近では思えてしまいます。それともただそういう過渡期にあたってしまったということなんでしょうか?

 

いや、今ではすべてのことが、結びついてもうその頃、既に色々と〇〇だったから、というのもあるかもしれない、と考えてしまいます。

 

いずれにしても、三船敏郎さんは素晴らしい作品をたくさん残した、日本が世界に誇る俳優であることに変わりはありません。

 

今日は、ぜひ多くの人に三船敏郎さんの映画を観ていただきたいと思います。

 

 

本日は後桜町天皇の祭日でもあります