いつもは旧暦で天皇の誕生日を紹介していますが、本日は新暦で天長節が重なる日付です。

 

天長節は唐の時代に玄宗皇帝の誕生日を祝ったことに由来する日で、日本においても光仁天皇の時代に天長節の儀が行われ宴を賜ったことが始まりとされています。

御歴代の天皇がたくさんいらっしゃいますから、天長節も重なる日があります。現在ここでは和暦基準で天長節をみていますが、新暦(西暦)での日付がはっきりしている天皇の天長節では本日は一番重なっている日となります。

 

本日は、高倉天皇、後桜町天皇、光格天皇の天長節です。


高倉天皇は平安時代の終わり、1161年9月23日、応保元年九月三日ご誕生されました。平家滅亡のおり、平家とともに海で崩御された幼い安徳天皇の父君です。

白河法王・鳥羽上皇・後白河上皇は院政が続いた時代として有名ですが、高倉天皇は後白河上皇の第四皇子として誕生し、8歳で即位されましたから、ずっと後白河上皇が院政を行っていました。しかし、高倉天皇が安徳天皇へ譲位する直前、平清盛に後白河上皇が院政を停止されたため、高倉天皇の親政が始まりました。その後、平清盛の孫でもある安徳天皇の即位後は高倉上皇の院政となります。しかし、高倉上皇は翌年初めに崩御されたため、政務はわずか10ヶ月ほどで、その後再度後白河上皇が院政を再開しています。高倉上皇の院政といっても舅である平清盛の影響が大きくまた短かい期間であったため忘れられています。しかし、この清盛の影響力の大きかった安徳天皇の譲位及び院政が、高倉天皇の兄弟である以仁王(もちひとおう)の怒りを買い、以仁王は諸国の源氏に平家追討の命令書を出しています。

高倉天皇は色白で美しい容姿だったと言われていますが、それもそのはず、母である皇太后、建春門院(平滋子)は言葉に出来ないほど美しいと絶賛された方でしたから、その美貌を受け継がれたのだと思います。建春門院は後白河天皇の寵愛篤く、また人柄も良かったと伝わります。そして、高倉天皇も人柄がよく多くの延臣から慕われたといいます。しかも、建春門院は勢力を増している平清盛の妻時子の妹という立場から平家と後白河天皇の間を取り持たれていた方でした。そうしたことから幼い六条天皇に変わって高倉天皇は即位したのです。一方で、以仁王の母は身分が低くバックボーンも弱かったため親王宣下がされず生涯「王」の立場にとどまっていました。だからこそ人の注目を集めることなく活動が出来たともいいます。以仁王の平家追討の挙兵は成功せず、奈良に向かう途中で討ち死にされますが、この全国にまかれた令旨が木曽義仲・源頼朝の平家打倒へと結実されることとなります。

高倉天皇は、平清盛の娘徳子との間に誕生された第一皇子言仁(ときひと)親王に譲位(安徳天皇)の翌年崩御された時21歳の若さでした。そしてその安徳天皇も、平家滅亡の時、一緒に壇ノ浦に沈みわずか8歳で崩御されました。

歴史にifはないといいますが、もし高倉天皇が御存命であれば、安徳天皇が夭折されることはなかったかもしれませんし、安徳天皇と一緒に持ち去られた三種の神器なしで即位された安徳天皇の異母弟である後鳥羽天皇の即位に絡むコンプレックスも生まれず、承久の変に至るようなことは起きなかったといえるでしょう。そもそも安徳天皇が連れ去られなければ、後鳥羽天皇の即位はなかったはずなのです。時代の流れで平家の滅亡と源氏の鎌倉幕府開始があったとしても、朝廷の関わり方はもっと違う形になっていたことでしょう。

しかし、歴史では高倉天皇は若くして崩御され、残された皇子達は今度は鎌倉幕府との関わりの中で激動の時代を生きてゆくことになります。

高倉上皇は崩御された時21歳でしたが、安徳天皇を含め四男三女の皇子女がいらしゃいました。今の感覚では驚くかもしれませんが、この当時平安時代の成人の儀式は12歳~16歳が普通でしたから、最初の子供が15歳の時誕生されているのもおかしくはないわけです。

第一皇女:功子内親王(伊勢斎宮)
第二皇女:範子内親王(賀茂齋院、土御門天皇準母)
第一皇子:言仁親王(安徳天皇)
第二皇子:守貞親王(後高倉院-後堀河天皇の父君)
第三皇子:惟明新王(聖円入道親王)
第三皇女:潔子内親王(伊勢斎宮)
第四皇子:尊成親王(後鳥羽天皇)

上記、四男の内二人が天皇に即位されています。尊成親王と同母の兄弟であった、守貞親王は、安徳天皇と一緒に平家に連れられて行きましたが助け出され都に戻りました。しかし、その時には、後白河天皇に可愛がられていた尊成親王が既に天皇に即位されていました(後鳥羽天皇)。この時期安徳天皇が崩御されるまで同時期に二人の幼い天皇が存在したのです。その後、後鳥羽上皇の時代に承久の変が起きた結果、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流刑となり、後鳥羽上皇系以外での天皇の即位を考えた時に、出家せずにいた皇子が、守貞親王の皇子茂仁王(後堀河天皇)しかいなかったため、守貞親王が治天の君として太上天皇号を奉られ法皇として院政を敷くこととなりました。つまり高倉天皇の皇子達は、母の身分の低かった第三皇子の惟明新王以外3人の皇子が皇統に連なったわけです。

しかし、その後堀河天皇の次の四条天皇の崩御が夭折だったため、再度後鳥羽天皇の系列に戻ることになります。承久の変には参加しなかったけれども自ら配流を選ばれた土御門天皇(後鳥羽天皇の皇子)の第二皇子である邦仁親王が即位(後嵯峨天皇)したのです。

高倉天皇の父の後白河天皇の時代以降、平安末期から鎌倉へと移る激動の時代でしたが、政変や夭折などが相次ぐ中、傍系に行くことなく高倉天皇の皇統が引き継がれていき、現在へと続いています。


高倉天皇誕生から514年後の1675年、延宝3年の江戸時代初期に誕生された東山天皇も父の霊元法皇がずっと院政を敷いておりました。在位22年、中御門天皇に譲位された後自ら院政を敷かれましたが、たった半年で病の為崩御されています。そのため霊元法皇が院政を再開しており、高倉天皇と状況が似ています。

東山天皇の時代は、徳川第五代将軍綱吉から六代将軍家宣の時代でしたが、家宣は甲府藩主から綱吉の継嗣に迎えられ将軍になっています。徳川家がほんの数代で後継問題が起きたこともあり、家宣が将軍就任後すぐに甲府時代からの家来であった新井白石が家宣に奉呈したのが、閑院宮家創設に関する建白書でした。

白石の自叙伝「折たく柴の記」によれば「平氏や執権北条氏は皇室の怒りにふれて滅びました。もし武家政治を連綿と続け、将軍家の末永い繁栄をお考えになるなら、皇室を等閑(なおざり)視なさらず、これまでの皇恩に報いるべきでございます。まず、皇室の財政難で打ち捨てられたままになっております新宮家創立をぜひとも実現させていただきたい」というものでした。

ここから東山天皇の第六皇子、直仁(なおひと)親王を初代とする閑院宮家の創設が決定、中御門天皇が勅令を出され、八年後に霊元法皇より「閑院宮」の宮号と所領が下賜されました。


それから61年後、閑院宮家の師仁(もろひと)親王が、皇子を残さないで崩御された後桃園天皇の次の天皇となりました(光格天皇)。新井白石が未来を見据えた建白書が見事生きた瞬間でした。光格天皇は今上陛下へと続く皇統の始まりなのです。

 

 

 


光格天皇は1771年9月23日、明和八年八月十五日に閑院宮典仁親王の第六皇子として誕生され、即位された時まだ8歳でしたので、後桜町上皇が後見し教育にあたられました。後桜町上皇は、後桃園天皇の伯母で桃園天皇が崩御された時、皇子がまだ4歳と幼かったため中継ぎの為に即位されていました。ところが成長を待って譲位した後桃園天皇が21歳の若さで崩御されたのです。

後桜町上皇は1740年9月23日、元文五年八月三日に桜町天皇の第二皇女、智子内親王として誕生された日本史上最後の女帝です。

智子内親王は、異母弟の桃園天皇が崩御された時、その皇子の英仁親王が幼かったため、中継ぎとして即位されました。英仁親王が13歳になると譲位(後桃園天皇)し、上皇として補佐されます。ところがその後見していた後桃園天皇も若くして崩御され、皇子女は欣子内親王しか残されませんでした。

そこで閑院宮家の師仁親王が急遽践祚されて9歳で即位し光格天皇となりました。後桜町上皇は光格天皇も後見として補佐されたのです。しかし桜島が大噴火を起こした直後で、同時期に世界各地でも噴火が起きるなど、気候変動の時代にあたり世界中が大変な時期となっておりフランスではそれが原因でフランス革命が起きたと言われています。そして日本でも江戸四大飢饉の一つ天明の大飢饉が起きました。

この時、1787年7月21日、天明7年6月7日、御所に助けを求めてお祈りをしにくる人があふれ、10日ほどで7万人集まったといわれています。門からお賽銭を投げ入れる人もいて「御所千度参り」といわれましたから、祈る場所としての御所の認知があったと思われます。その時の光格天皇はまだ16歳でしたが、教育にあたられていた後桜町上皇が集まった民衆に和りんご3万個を配り、それにならった貴族もお茶や握り飯を配り始めたそうです。そうした中で若い天皇が江戸幕府に働きかけ民の救済を要求し、幕府が従って米の放出をしたことが後の尊王運動へと結びついたといわれています、ここから朝廷と幕府の立場が逆転していきますから、この出来事はその後の光格天皇ご自身の自信にも繋がり大きな影響を与えたことだったと思います。

光格天皇は16歳でしたから、その行動力は後桜町上皇の御意思の影響が大きかったかと思います。そして、和りんごを3万個も配ったという事、またその行動に貴族たちがならったことから、とても聡明で周りに信頼されていた方だったこともうかがえます。


光格天皇はその後幕末へ向かう時代の転機となった天皇と言われていますが、これはそのように指導された後桜町上皇の後見の力があってこそだったと思うのです。後桜町上皇の弟の桃園天皇の時代には宝暦事件が起き弟の若手近習が排斥されるということがありました。それは幕末へ続く尊王論の表れの事件でした。そういう時代の流れを体験されてきた上皇が、光格天皇を後見してきたのです。

現在の皇室の系統に繋がるとともに、幕末の天皇を導いた天皇として注目される光格天皇ですが、そこには母のように幼い天皇を見守った後桜町上皇の存在がありました。

光格天皇には次の御製があります。何年か前、出典を探して国会図書館に通ったことがあるのですが、見つけられていません。しかし、こうした御製を残していたと知るとその皇孫、幕末の孝明天皇の行動がわかると思います。

「神様の国に生まれて神様の道がいやなら外国(とつくに)へ行け」

 

 

この御製はストレートに、日本の考え方が表された歌だと思います。

日本では、古来から外から来る者を稀人…神として敬う考え方がありました。だからこそ、日本では新しい物や考え方などもどんどん受け入れてきました。しかし、そこには郷に入れば郷に従え、が基本にありました。これは少なからず、世界中にあるものでもあり、これは国の秩序を守るためには必要なことでもあります。そして歴史をみれば、日本が外来からのものを制限した時代というのは、外来のものが害をなした結果ということがわかってきます。

光格天皇の御在位中には、フェートン号事件やゴロ―ニン事件、そして上皇の時代にはシーボルト事件、モリソン号事件が起き、崩御された年にはアヘン戦争が発生しています。そうした歴史をみると、このような御製が詠まれた背景が理解しやすくなってくるかと思うのです。


高倉天皇、東山天皇、後桜町天皇が西暦では同じ日に誕生され、その皇統や世情が危うい時代であったことを知っていくと、皇統が続いてきたのはつくづく不思議な力が働いたのではないかと繰り返し感じることを再確認します。天皇の御代が続くということは日本が続いていくという事でもありますから、ありがたいことだと思います。

ご歴代の天皇を知ることで、日本の歴史の流れが見えてきます。

 

 

「天皇の国史」、天皇を通して歴史をみると日本がわかりやすくなります。

 

 

「天皇の国史」には、御歴代天皇の継承図がありますが、こちらには可愛い歴代天皇表が作られています↓