七月といえば七夕です。私は子供の頃、学校や友達の家などの笹に願い事の短冊をかけていました。
 
しかし、神社に興味をもってから、七夕は神社またはお寺の行事であることを知りました。神社やお寺では、ちゃんと祈祷をされますから、願い事をするなら、神社やお寺で願い事をしたほうがいいのです。
 
また七夕は実は禊行事の一つです。夏祭りは禊祓の意味でのものが多いです。というのもこの時期はお盆前の時期だからです。お盆の行事の前にその準備として浄めるためのお祭りが夏越しの大祓であり、七夕祭りでもあります。お盆というとお寺の行事と思われる方が多いかもしれませんが、本来の仏教は輪廻転生であり死者を祀るものではなかったのですが、日本に来て日本的風習を取り入れて変わったのが日本の仏教であるということを考えると盆の前の禊祓行事というのも頷けるかと思います。そして七夕のお話が大陸から伝わったように、七夕行事も大陸から伝わったものと単純に考えていたら、やはり日本に来て日本流に変わり禊行事となっていました。つまりこの時期に、水辺で神様のための衣を織る祭事が行われていたのです。日本に伝わったもので、日本風に変わらずに残ったものなどないのです。

 

お盆にご先祖様をお迎えするのは、年初に歳神様をお迎えすることや、春に山神さまを田にお迎えすることに何と似通っていることか。
 
年末にも大祓いがありますし、古来日本の1年は半年だったといいますから、夏越の大祓が終わったこの時期は二度目の正月準備期間ともいえます。
ということで、夏越の祓えを逃しても、七夕祭でお祓いすることができます。
 
この七夕祭は日本各地で新暦や旧暦で行われたり、あるいは旧暦の月の7日に行われたりしています。空の具合からすると新暦は梅雨の時期に重なりますから、旧暦の方が日本の空にはあっています。ただし、今年は閏年とあって例年より日にちがずれて、旧暦の七夕は8月25日となっていますので、台風と鉢合わせる可能性が高くなっています。
 
七夕というと織姫と彦星のお話や願い事を笹の葉に下げるということから若い人達や子供が盛り上がる行事やお祭りとしてのイベント行事がよくありますが、老若男女関係なく禊祓行事ですから、神社やお寺で七夕行事をするのが本来の形ですし、神社やお寺でしたら願い事の御祈祷もしていただけます。願い事をするなら、やはり御祈祷していただけたほうが効果がありそうですよね。
 
だから、七夕は神社やお寺にお参りしたほうがいいのです。今年は日本全国で七夕のお祭りは中止のところが多いと思いますが、祭祀そのものは中止になりません。むしろ、このような時期にこそ、七夕の祭祀はふさわしいものでもあります。七夕にはぜひ、神社かお寺にお参りいただきたいと思います。
それから、願い事が叶ったらお礼参りはお忘れなく\(^o^)/
 
 
七夕発祥の地ととなっている大阪の機物神社の例祭はもちろん七夕の日、7月7日となっていますが、今年はお祭りは中止だそうですから、例祭だけ行われるのでしょう。
 
機物神社のご由緒にはこうあります。
古代、枚方市「津田」を「秦田(はただ)」、交野市の「寺」を「秦山(はたやま)」、「倉治(くらじ)」を「秦者(はたもの)」といっていた時代がありました。神社の名称はこの「秦者」の人たちが祀る社ということで、「ハタモノの社」が本来の呼び名であったと思われますが、後に七夕伝説と結び付けられて、「秦」の機織りの「機」に換えて現在の機物神社のイメージ作りが行われたといわれています。
起源は古く四~五世紀にあるとも考えられますが、五~六世紀の頃に秦氏に代表される交易商人によって組織された養蚕布織の技術を持った民が大陸から渡来して、一部の集団が東部産地の麓に定住した時といわれています。
当時、交野山と太陽の位置関係で、ある特殊な日に特別な現象が起きることに着目して大陸から呪詛祭祀の習慣を持ち込んで、祭祀の場を「堂(くつ)」と言う神堂を設けたのが創まりではないかと言われています。特別の日の特別な現象とは、冬至の日に、機物神社の境内から交野山に重ね合わされた日の出が見られることです。このために、この場所は特別に神聖視された祭祀の場所となったようです。条件がよければ、冬至前後の数日間は交野山山頂に日輪が光り輝く直前に交野山の裏側に白道(しろみち)(白い光の帯)が奔り、朝日山を鮮やかに浮き立たせる現象を一瞬見ることができるようです。祀ができる以前は交野山(岩屋)そのものが、機物神社の御神体であり誠に広大な地域を有していました。長岡京が当神社の御神体であった交野山の真北に配置されていることが道教的世界観に基づくものであることはよく知られているところです。
後に和気清麻呂の進行により京都へ遷都し、平安時代を創始した桓武天皇もこの地をしばしば訪れています。因に現在の境内にある鳥居の内のひとつは交野山と伊勢神宮の両者に向かって参拝できるように設計されています。
もう少し時代が下がると、室町時代の文明八年に、後土御門(ごつちみかど)天皇の勅により神紙管領の卜部兼倶(うらべかねとも)の奉幣に始まるとされています。 祭神に出雲系氏族の神の 地代主命(とこしろぬしのみこと)や 事代主命(ことしろぬしのみこと)が弊社に含まれているところを見ますと、軍神としても尊ばれ、元亀・天正・文禄・寛文年間には、信長や光秀・秀吉・家康らによって手厚い庇護の手が差し延べられたことも記録されてありますが、祭神の起源は、農耕・産業を司るのが本来のありさまで、後世になって七夕伝説と結びついて、手芸・学問の神としても尊ばれるようになり現在に至っています。

大阪の豊国神社の摂社末社の中に七夕神社がありますが、九州にも七夕神社があります。

 
正式名称は「媛社(ひめこそ)神社」。その歴史は古く、8世紀頃に記された「肥前国風土記」にも登場しているほどの古社です。ご祭神は、媛社神(ひめこそのかみ)と織姫神(おりひめのかみ)。例年8月7日に七夕祭りが行われています。
 
 
私の地元足利市の織姫神社では6月末から7月末まで七夕の短冊祈願ができます。またイベントで使用した七夕飾りのお焚きあげもおこなっています。ここには独自の七夕の言い伝えがあります。
 
むかし昔、都よりはるか遠い下野の国あしかがにひとりの美しい娘がすんでいました。ある日、娘が機を織るために糸をつむいでいると、そこへ都より若い織師が訪ねてきました。そして、織師は、その娘に都で流行っていた機織りをまいにち熱心に教えました。 娘は、織師と一緒に機を織ることが楽しく、朝から晩まで一生懸命に機を織り、その布を渡良瀬川のすんだ流れの中にさらすと、川いちめんに花が咲いたような美しさでした。
何年か過ぎたある日、都よりむかえの使者がきて織師は、都へ帰らなければならないことになりました。 娘は、悲しみのあまり機を織ることをやめ、まいにち魚住山に登り、都に帰ってしまった織師にあえることを祈っていました。
 
ある日、渡良瀬川のほとりにたたずんでいると、ひとりの白いヒゲをはやした老人がとおりかかりました。老人は、娘に一生懸命に機を織り、その布を神様に捧げればかならず願い事がかなうと伝えました。 娘は、都に帰ってしまった織師に逢えることを願っていっしんに機を織りました。
やがて、神様は一年にいちど、七夕の夜に逢えるように娘の願いをかなえてくれました。 七夕の夜には、渡良瀬川が天の川となって都まで広がり、織師は星の船にのって娘に逢いにきました。そのとき、織師がまとっていた布は、娘が神様に捧げた布でした。
娘は、いつしか織姫とよばれるようになり、都を望む魚住山のちゅうふくに織姫神社が建立され織姫は、天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)織師は、天御鉾命(あめのみほこのみこと)になり、織物のまち足利の守り神として足利織姫神社に祀られることになりました。
 
これは地元の人ならよくわかるのですが、渡良瀬川で織物を洗うのは足利銘仙の町としての伝統行事として昔は必ずNHKでニュース放映していたほど有名なもので地元では誰もが知っています。渡良瀬川は足利を二分するように流れる川として足利と切っても切れない川でもありますから、地元に根付いた伝承といえます。
 
ちなみに森高千里さんが歌われた渡良瀬橋は、この渡良瀬川にかかっている橋のことです。って、地元じゃない人には興味ないかもしれませんが、私は、いえ足利の人はこの歌大好きなので・・・。

 
京都、清水寺にある地主神社のサイトは七夕関連のページが充実しており、この時期になると読んでしまいます。

また、京都といえば貴船神社のライトアップが毎年有名で、今年も行われています↓

 

東京芝の増上寺では、例年より縮小して七夕祭りが行われ、ここ最近毎年行われていた和紙のキャンドルナイトは中止となっています。

 

 

 

旧暦の月遅れ開催で例年有名な仙台の七夕祭りは、伊達政宗公が女性に対する文化向上の目的で奨励されたことが起源だといいます。その政宗公には七夕に関する和歌が8首残されています。その一つは、政宗公の母の七回忌に詠まれたもので、色々と確執があったと伝わる親子の姿が垣間見れる歌となっています。

政宗公が江戸風として取り入れた七夕祭りが根付いたのも、なんでも自前で作られるのが当たり前であった昔、機織りというのは身近なものとしてあったからだと思いますし、伝承話などは機織りの町として有名でなくても日本全国にあるのではないかと思います。明治に新暦に変わったのを機に廃れた七夕祭りを復活させたのは、商店街の方々の熱意だったのでしょうが、多分戦後より宗教色が薄まったであろう七夕祭りは、仙台の七夕祭りの賑わいにあやかり日本各地の商店街に広がっています。しかし、このような時期であるからこそ、あらためて七夕行事を見直すいい機会なのかもしれません。
 
 
来年はまた例年のような賑やかな七夕ができることを願っています。

 
古来からの和暦、旧暦について考えさせられた「和暦で暮らそう」。これを最初読んだときよりも、神社について学んでいる今の方が少しでも理解力は深まっていると思いますが、暦は深すぎて全然近づけていません。