昨日は聖武天皇の祭日でしたが、その聖武天皇の御代の疫病とはどんなものだったのか。

 

聖武天皇が即位されて三年目、神亀三年(726年)6月諸国に疫疾が流行し、天皇は「百姓が沈痼病に感染し、年を経ても未だ治らず、または重病で昼夜苦しむ」と詔を出し、流行地に医師を派遣し病人に医薬を与えました。この時の病は地方病で、マラリア、住血吸虫、つつが虫病、などが考えられます。これは農村地帯に多い病で、近代になるまで苦しめられた病です。

 

このころ、疫病が発生すると、天皇は諸国の神社に幣帛を奉じ祈祷させることと、全国各地の寺々に仁王経などの読経を命じること、疫病に医薬を賜うこと、賑恤(しんじゅつ:貧しい人や被災者に金品を与えること)をすることになっていました。それが、上記聖武天皇の詔と一緒に行われたものです。

 

天平二年(730年)には、光明皇后は皇后宮職に施薬院を設けて、天下飢疫の救恤(きゅうじゅつ)に備えています。

 

天平七年(735年)、豌豆瘡(わんずがさ)が大流行しました。1月に新羅からの使節が入京、3月には遣唐使が帰国し4月に留学生の吉備真備等が唐から持ち帰ったものを献上するなど、海外との往来が盛んな時期でしたが、この頃から太宰府に疫病が流行し始め8月には多くの死者が出ました。この時も聖武天皇は詔を発し、祈祷や医薬などを命じています。続日本紀には、若死にするものが多かったと記されていますが、この時が初めて豌豆瘡の病名が登場した時でした。これは、発疹が着物の裾へ広がるように、頭から体全体に広がる様子からつけられた俗称でした。

 

この流行は新羅から伝わったもので、新羅で疫病が大流行していることを知らずに天平八年に新羅に遣新羅使が派遣され百人あまりの随員が向かいましたが、翌天平九年1月に帰国した時は40人に減っていました。帰国した者も患い、3月末まで朝廷に参内できませんでした。

 

しかしこの時既に畿内でも豌豆瘡が広がり、朝廷の役人にも流行していました。その中に、藤原四兄弟も入っていたのです。

 

四月十七日、藤原不比等の次男で北家の始祖、兄弟の中で最初に参議になった藤原房前(ふささき)が五十七歳で亡くなりました。

 

五月一日には、僧侶六百人が宮中に招かれ大般若経の読経が行われましたが、疫病は止まりません。

 

五月十五日、聖武天皇は「四月以来、疫病と日照りが同時に起こり、田の苗は萎んでしまった。それで山川の神々に祈祷し、天神地祇に供物を捧げて、祭りをしたがまだ効果が現れず、依然として民は苦しんでいる。朕の不徳のために、まことにこのような災難を招いしてしまった。それで、寛大で、慈しみ深いこころを世に布いて、人民の病を救いたいと思う」と述べて大赦を行いました。それでも次々と重臣が病で倒れます。四位以上の官人のうち、六月に入って四人、七月に入ってさらに四人が亡くなりました。

 

不比等の四男京家の始祖、参議の藤原麻呂も七月十三日に四十三歳で亡くなっています。

 

続いて二十五日には不比等の長男南家の始祖、右大臣藤原武智麻呂が五十八歳で亡くなりました。この日重体におちいると、聖武天皇は大赦を発令し、武智麻呂を左大臣に任命しましたが、その甲斐もありませんでした。

 

八月に入りさらに二人亡くなり、二日、天皇は畿内に四カ国に対して、僧侶は沐浴して身を清め、一か月のうちに、二、三回、金明最勝王経を読経することを命じます。しかし、その三日後の五日、藤原四兄弟のなかで最後まで残っていた三男、参議の藤原宇合が四十四歳で亡くなりました。宇合は藤原式家の始祖ですが、わずか3か月の間に藤原四家の長が全て亡くなり、藤原家は大きな打撃を受けました。また、藤原家だけでなく、多くの官人が亡くなり、朝廷は混乱を極め年中行事も行えなくなってのです。

 

そして、聖武天皇は反省されるのです。

「自分が天下の君主になってから何年も経った。しかし徳によって人民を教え導くことにまだ十分でなかったために、人民を安らかに暮らさせることができない。朕はこのことを日夜憂い、気遣っている。また春以来、災厄の気がしきりに発生し、天下の人民が沢山死亡している。まことに朕の不徳によってこの災厄が生じたのである。天を仰いで慙(は)じ、恐れている。少しも安らかな気持ちになれない。そこで人民に免税の優遇を行い、生活の安定を得させたいと思う。」

 

免税とともに、諸国の風雨を起こすことができ国家のために効験ある神々をまつっている神社全てに奉幣をさせました。また僧侶700人が宮中に招かれ、宮中の十五か所で天下泰平・国土安寧のために大般若経と金光明最勝王経が転読され、400人が出家し、その他ありとあらゆることが行われました。

 

しかし、疫病は止まず八月二〇日に天智天皇の皇女水主内親王が薨去されました。(ただし天智天皇の皇女ですから、高齢です。)

 

九月になってやっと豌豆瘡も下火になり、九月二十八日、公卿のなかでわずかに生き残った鈴鹿王(故長屋王の弟)を知太政官事に、橘諸兄を大納言に、遣唐使を務めた参議、多治比広成を中納言に任命して新政権が発足しました。藤原家からは十二月になって武智麻呂の長男の豊成が参議に加えられます。

 

「続日本紀」の天平九年末はこう書かれています。

この年の春、瘡ができる病が大流行した。はじめ九州で広がり、夏から秋にいたるまで、公卿をはじめとして天下の人民が相次いで亡くなり、その数は数えることができないほどであった。これは最近までなかったことである。」

 

 

国史上、政権主要メンバーが疫病で同時期に何人も亡くなった記録は他にないかと思います。それほど、この時の疫病が凄かったということになりますし、だからこそ藤原四兄弟があいついで亡くなったことは歴史教科書にも記載されていましたが、亡くなったのは藤原四兄弟だけではなかったのです。

 

現在でしたら伝染病への対応もその伝染病毎にわかってきており、とりあえず移さないような対応もできるわけですが、当時の人々にそうした知識はありませんから、人を集めたりしてさらに広まったということもあったのだと思います。しかし、それは現在だから言えることであり、聖武天皇は当時考えられる最善のあらゆることを行われています。

 

 

このような疫病が流行った時、君主である自分の日頃の行いが原因である!という考え方の中に生きなけらばならない天皇は本当につらいものがあったと思います。

 

「FULL POWER」には、困難や痛み苦しみなどを受け入れることが、意義や成長へと向かう基本的な道となる、と書かれています。

聖武天皇は、天皇としての重責を思い悩みながら最善をつくそうとされました。そうしたことが、結果的に天平文化を生みだすことに繋がったのではないかと思います。

 

また「国土が日本人の謎を解く」では自然災害の多くあった日本と殺戮の歴史を繰り返してきた世界の国々の死生観の違いがあげられており、自然災害の多い我が国だからこその死生観が生まれたと書かれています。そしてこのことは、そのまま各国と違い国民を思う君主である天皇を産み出したといえます。

 

天皇の歴史をみると、疫病や災害が起きるたびに人々を思い祈られる天皇の姿があります。我が国は元々神武天皇が民を思う大御心で建国された国ですが、君主の行いが自然災害や疫病等の原因であるという考え方があったことや、自然災害が多い国土であることが、2000年以上も続く我が国の天皇と国民の紐帯(国民を思う天皇と国民のために祈られる天皇を信頼する国民)となったのかもしれません。

 

 

 

参照:病が語る日本史