第九十九代後亀山天皇は室町時代の朝廷が二つに分かれていた南北朝の南朝四代目の天皇にして南朝最後の天皇です。

正平五年・貞和六年(一三五〇年)後村上天皇の第二皇子として誕生。

御名は熙成(ひろなり/のりなり)。

御父は後村上天皇、御母は近衛勝子(阿野実為の娘説もあり)、また祖父は後醍醐天皇。

在位は一三八三年から一三九二年。

弘和三年・永徳三年(一三八三年)冬、同母兄の長慶天皇の譲りを受けて三四歳で即位されました。後醍醐天皇が南朝を開いて半世紀、この時期は南朝が最も衰えた時期でした。一方で三代将軍足利義満の室町幕府は隆盛期を迎えていました。

元中九年・明徳三年(一三九二年)、後亀山天皇は義満の和平条件を受け入れ、南北朝は合一することになりました。その条件とは、後亀山天皇(南朝)が後小松天皇(北朝)に譲位する形で三種の神器を授ける。今後は南朝、北朝から交互に天皇を立てる(両統送立)。諸国の国衙領は南朝、長講堂領は北朝が管理することなどでした。

後亀山天皇はこれを受け入れ、嵯峨の大覚寺で後小松天皇に神器を授けて譲位したのです(明徳の和約)。南朝の元号である元中は廃止し、東宮位にあられる護聖院宮(後村上天皇の皇子・惟成親王)は事実上廃太子されました。

しかし、足利義満にはこの条件を守る気がなく、一方的な吸収合併のようでした。南朝に対しても軽視の態度をとっていたのです。後小松天皇は第一皇子に皇位を譲り南朝(大覚寺統)に皇位が移ることはありませんでした。

武家の非礼や経済的困窮など不満もあったようで、嵯峨を出て吉野へ行ってしまったこともあります。その一因には両統送立を守る気のない動きをみせいていた幕府への抗議の意味もあったといいます。
 
後に後亀山院は、なぜ南北の和睦に応じたのかを「自分の運命よりも、国民の苦しみ、憂いを休めたい」と語られたそうですから、これも大御心だったのでしょう。
 
兄の長慶天皇の時代には和睦の動きがみられないことから、長慶天皇は主戦派であり和睦派の後亀山天皇とは対立していたという説もあるそうですが、後亀山天皇が即位して和睦の道が開けたのは確かなことです。しかし、その決断も取り決めが反故にされその心中はいかばかりかとも思うのです。上皇の尊号もなかなか付与されず(明徳の和約2年後に付与)、待遇も冷ややかな中、吉野から戻られるのは関東の情勢悪化を受けて、後亀山上皇が政治利用されるのを恐れた足利義持が所領回復の約束をしてからのことで7年後のことでした。

応永三十一年(一四二四年)崩御。

御陵は嵯峨小倉陵、京都市右京区嵯峨鳥居本小坂にあります。

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「歴代天皇総覧」
「歴代天皇で読む日本の正史」
「室町・戦国天皇列伝」