★第九十五代花園天皇は鎌倉時代末期の天皇です。
 
一二九七年生。
 
在位一三百八年から一三ー八年。
 
御名は、富仁(とみひと)、遍行。
 
御父は伏見天皇、御母は洞院季子。
 
花園天皇の時代は、両統送立で朝廷が二つに分かれ出したときでした。花園天皇の祖父である後深草上皇とその同母弟の亀山上皇の治天の君争い、つまり次の天皇が後深草上皇系(持明院統)になるか、亀山上皇系(大覚寺統)になるかの争いから始まったものです。両統送立は、鎌倉幕府が間に立ち交互に両統から天皇を立てるというものです。
 
富仁親王は異母兄後伏見上皇の猶子となり、大覚寺統の後二条天皇の皇太子となりました。 そして、十二歳で後二条天皇の崩御の後即位。皇太子は、九歳年上の大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)が立ちました。
 
花園天皇の治世の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を敷いていたので目立った事績はないものの、歴代随一と言われるほどの好学の君主と言われています。
 
そして、一三一三年の六月には、長雨で苦しむ民のため、代わりに我が命を捨てると祈願しその後の天気に一喜一憂しています。
 
後醍醐天皇に譲位後は持明院統の時期後継者の量仁親王(光厳天皇)の教育をされました。

量仁天皇に贈られた「誡太子御書」には、全文が漢文で古今に通じる貴い教えが書かれています。
 
『天が万民を育成し、それに君主を立てて統治させる。これは万民に福利を与へようとするためである。(謹略)聖なる君主が君臨してゐるならば、無事に天下は治まるであらう。賢君が国を統治されるならば、動乱が起こることはないであらう。(謹略)内には聡明で哲理に通じる思慮があり、外に対しては行ふべき名策を持ってゐなければ混乱の世の中を統治することができない。』
『一時的な屈辱を受けても、将来的に栄誉を保つことを得るならば、その屈辱を我慢することができる。』
 
「御歴代天皇の詔勅謹解」の現代語訳を読むと、歴代の天皇のご統治の精神に必ず顕れる大御心が伺われますし、歴々と流れる統治の知恵となる心得が解かれています。またその他にも時勢の推移や動乱の発生が予言されており洞察力の優れた天皇であらせられたと言われています。
 
日記の「花園天皇宸記」は、即位の翌年から後醍醐天皇が隠岐に流されるまでにわたり、動乱が近いことも予測していました。一三三三年、鎌倉幕府は滅び、花園上皇は後伏見上皇や光厳天皇と近江へ逃れますが、捕らえられ京へ戻っています。
 
「学道之記」の冒頭には「学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼儀を知り、状況の変化を弁え、過去を知り未来に活用するためにある」と記されています。
 
一三三五年出家。
 
仁和寺花園御所を寺に改めて妙心寺を開かれました。
 
一三四八年崩御。
 
仙洞御所である洛西花園の萩原殿にちなみ生前は萩原法皇と称されましたが、遺詔により花園院となりました。
 
妙心寺では、新暦の日付で開祖花園法皇忌が行われており、11月10日11日にかけて厳修されました。なお、宮中祭祀の天皇祭は、明治期に旧暦を新暦にあてはめて定められたもので、それに従い紀元節(建国記念日)や明治天皇の天長節(誕生日-現在は文化の日)も定められた日となっています。
 
御陵は十樂院上陵、京都市東山区栗田口三条坊町にあります。
 
 
★第百代後小松天皇は室町時代、南北朝合一時の天皇であり、北朝最後の天皇です。
 
一三七七年生。
 
御名は、幹仁(もとひと)、素行智。
 
御父は後円融天皇、御母は三条厳子。
 
在位は一三八二年から一四ー二年。

北朝第五代後円融天皇の譲位により六歳で即位しましたが、これは時の権力者足利義満の強い意向によるものでした。翌年南朝では後亀山天皇が即位しています。
 
室町幕府は三代将軍足利義満の隆盛期となっていましたが、後醍醐天皇が開いてから半世紀が過ぎた南朝側は衰退しており、南朝第四代の後亀山天皇は義満の和平条件を受け入れ南北朝合一することになりました(明徳の和約)。
 
義満の条件とは、以下の三つ。
一、後亀山天皇(南朝)が、後小松天皇に譲位する形で3種の神器を授ける。
一、今後は南朝、北朝から交互に天皇を立てる(両統送立)。
一、諸国の国衛領は南朝、長講堂領(持明院統の荘園)は北朝が管理する。
 
一三九二年、嵯峨の大覚寺で後小松天皇に神器を授けて後亀山天皇は譲位し南北朝が合一されました。神器のないまま即位する北朝時代は終わり後小松天皇は三種の神器を戴く天皇となったのです。
 
その翌年には父の後円融上皇が崩御し、足利義満の朝廷への影響力が増しました。後小松天皇は長期に渡り親政を行いましたが実権は義満が握っていたのです。
 
一四ー二年、第一皇子の実仁親王へ譲位(称光天皇)。南北朝合一の条件に反していますが、これはもともと条件を守る気のない義満の意向で、以降北朝系が即位を独占することとなりました。
 
称光天皇が病弱だったため、その次の後花園天皇の代も院政をとりましたが、義満の全盛期と重なり上皇が政治を見ることはほとんどなかったといいます。
 
義満は国王のごとく振る舞い、一四百一年に遣明使を派遣した翌年の返書には、「日本国王源道義」とありました。道義とは出家した義満の法名です。天皇から征夷大将軍の宣下を受けながら明から日本国王として冊封を受けた義満は、天皇という存在を理解していなかった歴史上でも異端な将軍で、応永十五年に急死すると諡まで送られており、他国から諡された最初で最後の将軍です。なお、京都の観光地として有名な鹿苑寺はこの義満が建てた別荘で、金箔張りであったことから金閣寺と呼ばれるようになったのは義満の遺言によりお寺となったのちのことです。
 
古代の雄略天皇の時代から大陸との距離を図り、日処の天子として形として表した聖徳太子や、遣唐使廃止にした菅原道真など懸命な政策を長年積み重ねた外交を汚した義満ですが、次の将軍となったその子の義持はすぐに勘合貿易(日明貿易)を中止し、臣下として朝貢することは日本の体面を損なうとしました。

「皇統は百代続けば断絶し、そこで新しい王が生まれる」という「百王思想」や「百王説」が昔からあり、後小松天皇が百代目であったことから、「天皇が途絶えた後は足利氏がそれに変わる」という噂が流れたといいます。
※後の世に天皇と認められた方等がいますので、実際は百代目近いからこの噂が流れたというのが正しいかもしれません。
 
在位中そのような噂が流れる中、南北朝合一があり、また日本史上一奇妙な将軍である室町時代最盛期の足利義満の頂点と死去がありました。光孝天皇の異称の加後号を遺詔されていることから御自身で転換期の天皇であることを意識されていたのは確かだと思われます。
 
なお頓知のアニメで昔は誰でも知っていた有名な一休宗純(一休さん)は、後小松天皇の実子と言われています。
 
一四三ー年出家。
 
一四三三年崩御。
 
御陵は深草北陵、京都市伏見区深草坊町、泉湧寺にあります。
 
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参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」