大正8年(1919年)1月18日から4月18日までパリで開会された第一次世界大戦における連合国が講和条件等に付いて討議した会議があります。

 

ここでは講和問題だけでなく、新たな国際体制構築についても討議されました。

 

この時の委員は計19名。米英仏伊日の五大国から各2名、ベルギー、ブラジル、中国、ポルトガル、セルブ・クロアート・スロベーヌ王国、ギリシャ、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアから各1名。

 

日本からの出席者は、日本政府代表として、牧野伸顕男爵、珍田捨己子爵の二人です。

 

2月3日から4月13日まで国際連盟規約草案委員会が15回開催されました。

 

そしてこの草案委員会の2月13日の第10回会合において日本から連盟規約の第21条「宗教条項」に、人種の平等を認めるように提案しました。

 

しかし、これは宗教条項事態が削除されることにより日本提案は実りませんでした。

この宗教条項が削除された経緯については、後にアメリカの通訳だった人の日本提案をつぶすためにこの条項の削除になったのではないかとのメモがみつかっているそうです。

 

そして4月11日の第15回会合(最終会合)において、連盟規約の前文に人種平等を盛り込むように草案の修正提案をしました。これは採決され、日本提案は当日出席委員会17名中11票の圧倒的多数によって支持されました。

 

この時の賛成票は、日本(2)、フランス(2)、イタリア(2)、ポルトガル(1)、中国(1)、チェコスロバキア(1)、セルブ・クロアート・スロベーヌ王国(1)、ギリシャ(1)。

 

賛成以外の票はカウントされませんでしたが、賛成以外の票はアメリカ(2)、イギリス(1)、ブラジル(1)、ポーランド(1)、ルーマニア(1)。

 

当日の欠席者はイギリスのジャン・スムーツとベルギーのポール・イーマンス。

 

本来であればこれで決まったはずですが、議長のウッドロー・ウイルソン(米国大統領)が介入し、こうした重要案件については全会一致にすべしとしました。仏代表のラルノードウと日本の牧野は抵抗しましたが、ウイルソンは退け押し切りました。

 

もしこの時、国際連盟規約に人種差別撤廃条約が盛り込まれていたら、その後の世界情勢はどうなっていたかを考えると、本当に惜しいことだと思います。

 

そしてこの案を退けたアメリカはといえば、大国でありながら世界でもつい最近まで普通選挙が行われていませんでした。公民権法が成立したのは1964年以後であり、本当の意味での普通選挙の開始は1970年、米大統領選挙では1972年のリチャード・ニクソン対ジョージ・マクガヴァン選からです。

 

つまり自国の状況からもこのような文言を容認するわけにはいかなかったのです。

 

 

以上、大阪市立大学名誉教授、山下英次氏講演参照

 

 

今年は、日本が人種差別撤廃の提案をした100周年という記念すべき年ですが、多くの人がそれを知りません。それはそういう教育がされていないからです。

 

私がこのことを初めて知ったのは、デュラン・れい子さんの「意外に日本人だけ知らない日本史」に書かれていたのを読んだのが最初です。れい子さん自身が外国人から教わったそうで驚いたそうです。

 

これについては最近話題の「日本国紀」にも記載されていますが、いかに日本人が日本のことを教えられていないかを物語ることの一つだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山口采希ちゃんが作った1919年の歌を追加します1/20