昭和21年1月1日(1946年)、「年頭国運振興の詔書」(「新日本建設に関する詔書」)が発布されました。終戦の翌年のことです。

 

 

 


終戦後の元気のない日本人を励ますため、昭和天皇が出されたものでした。現在の日本人も励まされる内容だと思いますので、毎年元旦に読みたいものだと思います。通称人間宣言とか言われていますが、いかにそれが見当違いかは、この際ご自分でご判断していただきたいものです。この勅書については、その後昭和52年の会見で昭和天皇が次のように語られています。

 神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないために考えたのです。 


昭和天皇の大御心の表れだったのですが、これを読むと現在の日本と日本国民がその大御心にいかに背いてきたかがよくわかるかと思います。これを読んだら、今からでもその大御心に応えていきたいものだと思うのです。



神の森というサイトに原文・書き下し分・現代語訳がありましたのでそちらから現代語訳を転載させていただきました。是非全文ご確認下さい。
年頭国運振興の詔書「新日本建設に関する詔書」
<現代語訳>

 『ここに新年を迎える。ふりかえれば、明治天皇は明治のはじめにあたって、国の基本方針として「五箇条の御誓文」を、おさずけくださった。それは、

一、広く会議を開き、あらゆることについて公の議論の場で決定すべし。
一、上の者も下の者も互いに一致協力して、国家秩序を盛んにすべし。
一、役人・軍人から庶民にいたるまで、だれもがその志をまっとうし、途中であきらめたり怠けたりしないよう計るべし。
一、過去のあやまった風習や弊害をやめ、なにごとも天地の道理にのっとるべし。
一、新しい智恵や知識を世界じゅうに求め、大いに天皇国家をふるいたたせるべし。

明治天皇の叡智にあふれた御旨は、この五箇条の御誓文にすべて集約されており、この上、付け加えるべきものはなにもない。余はここに、改めて五箇条の御誓文をもって、国の運気を開きたい。すべてはこの御誓文の御趣旨にのっとって、旧来の弊害を去り、国民の意欲を高め、官民協力して平和主義に徹し、教養も豊かな文化を築き、国民生活の向上をはかり新しい日本を建設すべし。

わが国の大小を問わない都市がこうむった戦争の災禍、罹災民の苦難、産業の停止と頓挫、食糧の不足、失業者の増加などのありようは、まことに余の心を痛ませるものがある。しかし、その一方、わが国民が現在の試練に直面しながらも、徹頭徹尾、平和な文明を求める決意を固くし、国民どうしの結束をまっとうすれば、わが国のみならず、全人類のためにも、輝かしい前途が開けることを疑わない。

わが国民においては、家庭と国家を愛する心が、ことに熱烈である。今まさに、その精神を拡大充実させ、人類愛の完成に向けて、献身的な努力をすべき時である。

余が思うに、これまで長きにわたった戦争に敗れた結果、わが国民はややもすれば絶望感にかられ、失意の底に沈んでしまう傾向がある。言動がしばらく過激に流れるようになり、道義に従う心もいちぢるしく衰え、そのために思想の混乱の兆候が見られるのには、まことに深い憂慮の念を覚えずにはいられない。

しかし、余は汝ら国民とともにある。常に利害を同じくし、喜びも悲しみもわかちあいたい。余と汝ら国民との間の絆は、いつも相互の信頼と敬愛とによって結ばれ、単なる神話と伝説を根拠に生まれたものではない。天皇をもって現人神とし、また日本国民が他民族より優れており、そのゆえに世界を支配すべき使命をもつといった架空の観念によって生まれた絆でもない。

余の政府は、国民の試練と苦難とをやわらげるため、あらゆる政策と国家経営に万全の手段を講ずるべきである。同時に余は、現在の苦難にあたってわが国民が奮起し、当面の困窮を克服するため、また産業と文化の振興のため、勇気をもって進むことを心より願う。

わが国民が、その実生活において団結し、互いによりそい助けあい、寛容をもって相手を許すという気風を高めるならば、わが国の至高の伝統に恥じることのない、日本民族の真価を発揮するに至るだろう。このように考えるのは、実にわが国民が、人類の福祉と向上のため、絶大なる貢献を爲すであろうことを疑わないからである。

一年の計は年頭にある。余は、余の信頼する国民が、余と心をひとつにして、みずから奮い、みずから励まし、もって以上の大業を成就することを、心より願うものである。』

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<補注>

いわゆる「人間宣言」がなされたとされる詔書であるが、下記のくだりから、マスコミは「人間宣言」なる言葉を生んだ。

『朕と汝ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神(あきつかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず』

「人間宣言」という言い方は、なかば「天皇の自己否定宣言」といったニュアンスを想起させがちであるが、この詔書には、そんな響きは微塵もないことがお分かり頂けるかと思う。ここにあるのは、「もう一度、明治維新の精神にたちかえり、君民一体となって頑張ろうじゃないか」という希望と励ましに満ちた力強い意欲であるのが、おわかりいただけるかと思う。

問題は『天皇をもって現御神(あきつかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず』というくだりの解釈である。ここだけとり出せば、確かに「天皇神格否定」だけが記されていると取れなくもない。「人間宣言」をいう時には、たいがいこのくだりだけが引用されてしまう。しかし、文章というものは、前後の文脈を通してこそ、初めて正しく読解されるのであって、一部だけ都合よく取り出してうんぬんするのはアンフェアである。ましてや、国王が公式に発表される「詔書」は、いわば天皇の国民への公式なお手紙である。誰の手紙であれ、差し出し人の意図をねじまげ、一部だけを強調するのは無礼ではないだろうか。

「人間宣言」というタイトルを冠した人間が、だれかはわからないが、天皇と皇室に悪意を抱いていたのだろうか。
「天皇現人神説と日本による世界征服説は虚構である」と告げられたのは、「国民と天皇の絆の根拠としては」ということである。天皇が御自身を否定されたわけでは毛頭ない。たとえば、「私は人間であって、天皇だけの権威などないし神の意を受けていない」といえば「人間宣言」といえるが、陛下はそうはおっしゃられてはいない。

だいたい、冒頭に引用された「五箇条の御誓文」の「御誓文」とは、「神に対する誓約文」という意味である。通常は、「五箇条」の部分だけが取り上げられるが、実際はこの御誓文には、神前で読み上げる長い「御祭文」の前置きがある。その「御祭文」とともに書いてある「完全版」の「五ヶ条の御誓文」は、なかなかお目にかかれない。しかし、その部分とあわせて読むことで、初めて「神への誓約文」であることがわかるのである。
 今回、その「完全版」をアップしたので、ご興味がおありの方はごらんください。

→五箇条ノ御誓文/完全版

これらをふまえた上で、「人間宣言」と呼んでよいものかどうか、再考が必要であろう。
昭和陛下が、昭和50年9月22日、外国人記者団に対し、「五箇条の御誓文こそ、日本の民主主義の基盤であったと信じています」とおっしゃられたことを、忘れてはならないと思う。
また昭和52年8月には、那須御用邸で宮内庁記者団の質問に対し、「宣言の第一の目的は御誓文でした。神格とかは二の問題でありました」とおっしゃり、明治陛下が神に誓われた五箇条の御誓文によって、すでに日本に立派に民主主義が採用されていたことを明示し、日本人が誇りを忘れないように配慮したとの御意志を示された。

転載 以上・・・・・・・

 

 

前年の8月15日の玉音放送が一般の人に分かりにくかったので、誰にでも分かりやすいような言葉での詔となっており、これほど我が国の本質をわかりやすく天皇自らが語られたことは後にも先にもないと思います。

 

 

この元旦の詔に通じる今年のauお正月CM

 

 

五箇条の御誓文が示された日

 

五箇条の御誓文の歌

 

 

 

私が子供の頃、お正月には母から「一年の計は元旦にあり」とよくいわれたものです。それは、ちょっと文言は変えられていますがここから来ているのかもしれないと、この詔を知った時考えたものです。そしてこれは、なにも昭和天皇以前からも、年頭が大切であるという伝統があったことも物語っているのだと思います。

 

 

大化二年正月一日にも、孝徳天皇から大化改新の詔が発せられています。

 

その一に曰く、昔の天皇のお定めになった子代の民や屯倉をはじめ、豪族の支配する民や諸々の土地の私有を止めよ。

 

その二に曰く、はじめに京師(皇都)を整理するとともに、畿内諸国に国司、郡司、関塞(重要な所の守塁)、斥候、防人、交通のために供された駅馬や伝馬等を置き、鈴契(駅馬・伝馬を使用するさいに使用)をつくり、諸国の境界を定めるやうにせよ。

その三に曰く、はじめて戸籍、計帳、班田収授法を制定することとする。

その四に曰く、従来の賦役を廃止して、田の調をとるやうにする。

 「御歴代天皇の詔勅謹解」の現代語訳より
以下、同解説です。

 

蘇我氏の横暴の数々は皇威を脅かすまでに発展した。この悪しき風潮を打開するため中大兄皇子・中臣鎌足等が立ち上がり蘇我入鹿に天誅を下した。よにいふ「乙巳の変」である(昔はこの義挙を含め「大化の改新」と称してゐたが、現在はこの入鹿誅殺、蘇我氏滅亡の事件を特に「乙巳の変」と称してゐる)。

氏族制度の弊害から蘇我氏の横暴を生んだが、皇国本来のあるべき姿を取り戻さうと動き出したのが大化の改新であり、建武中興、明治維新と並び国史上の三大革新ともいはれてゐる。天皇を中心に戴き、民が一体となり「国安かれ・民安かれ」の神勅以来の大御心に適ふまつりごとを実現するべく国史は動いてきたが、時代の節目ごとに革新の時期が訪れる。楠木正成を始とした南朝の忠臣、明治維新を成し遂げた志士たちなど心ある臣下たちが活躍したことで、民族の甦りである維新を成就してきた。これこそ世界に誇る最古の万世一系の皇国が続いてきた原動力ともいへよう。

大化の改新の要点を一言でいへば、君臣の分ちを明らかにして国体の淵源といふべき皇道政治を執り行ふとともに、民俗信仰の中心である天神地祇への祭祀の道に従ふということである。

旧氏族制度の弊害を一掃して、時代に適応した政治体制を敷き、国民利益を増進して天下一人もその所を得ないものがないやうにするための理想的なまつりごとの実現を目指す四箇条による新政の綱領が宣せられている。

新政を実施するにあたり、唐の律令制度を参考として取り入れられたが、あくまでも日本の実情に合った制度として、公地公民制や班田収授法などを確立し「良きを取り悪しきを捨てる」方針のもと日本独自の政策を打ち立てられた。

氏族制度の弊害を打ち破り、中央集権国家の確立のため十七条憲法を制定された聖徳太子。その理想政治の精神を継承して逆賊蘇我氏を討ち、大化の改新を断行された御事績はまこと素晴らしく、国史上常に敬仰されてきたのである。

 

 

転載以上・・・・・・・

 


歴史の授業は年表教育で、歴史を点でしか習いませんが、どんなことにも原因や結果、そしてその後の影響があります。そこまで知らなければ意味がありません。しかも日本のような長く続く歴史のある国では、その影響たるや数百年どころではなく千年二千年と続くものもあります。その影響を遡れば、神武天皇、また神代の天照大御神の御神勅まで辿れることが今も続く国である日本です。神代の時代とは、どのぐらい昔かわからないぐらい程昔ということです。
 


そのように続いてきた歴史の中で語り継がれてきたことは、遮ろうとしても、時の娘が必ず顕れます。

大化改新の詔の「幻の単位」記す木簡 難波宮跡近くで出土 

日本経済新聞ニュース
2015/2/3より

大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が3日までに明らかにした。

日本書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。しかし、五十戸と記した史料は、現在のところ天智天皇の時代の660年代のものが最古で、改新の詔の内容を疑問視する考えもある。

同研究所の高橋工調査課長は「木簡は書式が古く、孝徳天皇の時代にさかのぼる可能性があり、このころに『五十戸』があった証拠になるかもしれない」としている。

木簡は長さ15.5センチ、幅3.4センチ。「玉作五十戸俵」と記されていた。玉作という地名は陸奥(青森など)や土佐(高知)などにあり、地方から五十戸単位で税として米を納めた際の荷札とみられている。

木簡はごみ捨て場とされる谷で見つかった。出土品は古墳時代から平安時代と幅が広いため木簡の正確な時期を絞ることはできなかった。

 


転載以上・・・・・・・



記事にありますように、日本では古来からあったものを否定しようとすると、その存在を証明するものが出土されるということが多くあります。日本は不思議な国だと思います。


歴史の学び直しをはじめてから、御歴代の天皇の連綿と続く大御心やそれを守ろうとされる御意思を感じるようになりました。
天皇は、その影響力の強さから軽々しく物言いをされませんが、詔と御製には天皇の心が顕れています。


「御歴代天皇の詔勅謹解」では、大化の改新の詔が建武中興、明治維新に繋がったとありますが、下記の「御製からみる日本」では、後鳥羽上皇の御意思が、建武の中興と明治維新に繋がったと語られています。やはり全ては繋がっています。その天皇=日本の繋がりを日本人が知らないのはとても惜しいことだと思います。



後鳥羽上皇の御意志があったから、建武の中興があり、明治維新があった。御製に込められた後鳥羽上皇の思いをぜひご確認下さい。

 

 

 

天皇は人(民)の敬によりて威を増し

人(民)は天皇の徳によりて運を添ふ

 

 


天皇こそが日本、日本そのものだったから日本は続いてきました。
日本に生まれ育って本当に良かったと感謝です。

お正月の行事そのものが、日本と天皇の繋がり歴史を表しています。お正月をお祝いすることは、日本と天皇、そしれその歴史を抱く私達をも祝福し、またこれからの新しい一年を寿ぐ予祝ともなることなのです。

 

 

元旦は、こうしたことを振り返り再確認する時ではないか、そうすれば日本はもっともっと良くなるのではないか、と最近考えています。

 

一月一日

すめらぎのお話・・・元旦は日本の誕生日

天皇、皇后、両陛下の昨年の御製と御歌

 

天皇弥栄

日本弥栄