昭和15年(1940年)11月10日、国を挙げての紀元2600年式典が行われました。その貴重な映像がありますので、是非ご覧ください。

 

 

以下動画説明より

 

昭和15年11月10日、国を挙げて待望の紀元2600年式典の佳き日、一億国民、歓喜のうちに輝く紀元を寿ぎまつる日は来ました。
悠久誠に2600年。昭和の御代(みよ)に生を受けた我ら一億が、あふれるばかりの感激もて迎えたこのよき年、よき日。紀元2600年式典はかしこくも天皇・皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ奉り、爽涼たる秋晴れのもと、旭日(きょくじつ)、燦(さん)として輝き、瑞気(ずいき)大内山に満ちあふれるこの日、宮城外苑広場にしつらえられた式典場において、いとも荘重、厳粛に行われ、かしこくも天皇陛下には、優渥(ゆうあく)なる勅語を賜いました。この日、光栄の参列者5万5000は威儀を正し、隊列を整えて朝8時より式典場各受付口より入場。
次いで、昇殿を差し許された重臣顕官ならびに外国使臣らは、それぞれ婦人同伴、式殿に参入いたしました。
かくて午前10時半、5万5000の全参列者、すでに所定の位置に整列を終わり、大内山の緑に浮かぶ式場は寂(せき)として声なく、ただ打ち震える感激のうちに天皇・皇后両陛下の臨御御待ち申し上げたのであります。天皇・皇后両陛下には、御同乗の略式自動車鹵簿(ろぼ)にて午前10時48分、宮城を御出門。二重橋正門から式場に着御あそばされ、天皇陛下には、近衛総理大臣の御先導にて式殿玉座に着かせ賜い、皇后陛下にも御座に着御あらせられました。このとき近衛総理大臣は開会の旨奏上のため、式殿正面南階段をくだり、玉砂利を踏みしめて式殿正面中央階(きざはし)前にしずしずと参進いたしました。

《近衛総理大臣》
「これより、紀元2600年祝典を開始いたします。」
<放送>
「最敬礼」

(一同、天皇・皇后両陛下に向かい、最敬礼)
(君が代斉唱)

次いで近衛総理大臣は、恭(うやうや)しく陛下の御前に参進。一億の民草を代表して、紀元2600年の寿詞(よごと)を奏上申し上げました。

《近衛総理大臣》
「臣文麿、謹みて申す。伏して惟(おもん)みるに、皇祖国を肇(はじ)め統を垂れ、皇孫をして八洲に君臨せしめ、たもうに神勅(しんちょく)をもってし、授くるに神器をもってしたもう。宝祚(ほうそ)の隆(さかえ)、天壌と窮(きわま)りなく、もって神武天皇の聖世に及ぶ。すなわち天業を恢弘(かいこう)して皇都を橿原(かしわら)に定め、宸極(しんきょく)に光登して、徳化を六合(りくごう)に敷き賜ひ。歴朝相承(う)けて、ますます天基を鞏(かた)くし、洪猷(こうゆう)を壮(さかん)にし、一系連綿、正に紀元2600年を迎ふ、国體(こくたい)の尊厳(そんごん)、万邦固(もと)より比類なし。皇謨(こうぼ)の宏遠、四海豈(あ)に匹儔(ひっちゅう)あらんや。」

(紀元2600年頌歌斉唱)
遠すめろぎのかしこくも
はじめ賜いしおお大和
天つ日嗣(ひつぎ)のつぎつぎに
御代(みよ)しろしめすとうとさよ
仰げば遠し皇国の
紀元は二千六百年

かくて11時25分、天にも届けと天皇陛下の万歳を奉唱しました。

 

 

奉祝歌の「紀元二千六百年」映像付きです。上記映像もそうですが、当時の時代を反映して映る方々には感慨深いものがあります。

 

 

上の歌は藤山一郎さんだと思うのですが、のちに水前寺清子さんも歌われています。

 

今年は皇紀2678年です。

紀元二千七百年には、日本全体で祝える我が国になっていることを願っています。

 

なお昨日は大政奉還151年目の日でしたが、その大政奉還を勅許し天皇に政権が復したのが翌日であったことにちなみ、戦前は天皇に関する行事が11月10日に実施されることが多く、昭和天皇の即位の大礼(昭和3年)も、皇紀2600年の式典(昭和15年)も同じ日になっているそうです。

 

 

 

なお、天智天皇が祀られ、「ちはやふる」で一躍有名になった百人一首の聖地でもある近江神宮は、紀元2600年を記念して昭和15年11月7日に創建された神社で、今月7日にも御鎮座記念祭が行われています。

 

 

 

また式典の際に立てられた寝殿造りの建物、光華殿は現在、江戸東京たてもの園内に移築されており目にすることできます。

 

 

日本の紀元を紐解く本「建國の正史」

 

 

 

 

 

新米の時期なので再確認↓

日本の心得・・・新米を食べる日