倉場富三郎とは誰か?




写真のように日本人離れした顔をしていることからもわかる通り、倉場富三郎とは英語名をTomisaburo Awajiya Gloverという。

 

 

グラバーといえば幕末明治に活躍したスコットランド人の貿易商トーマス・グラバーが有名です。そのグラバーと淡路屋ツルの間に生まれたグラバーの息子が倉場富三郎で、明治3年に生まれました。トーマス・グラバーについては、武器商人であったことやその後の日本の近代化の貢献、またグラバー邸に隠し部屋があったことなどから、幕末の志士との深い繋がりがあるということで色々なことが調べられ書かれているのでご存知の方も多いかと思います。そのグラバー邸ですが、倉場富三郎が住み続けていたから今も残っているといいます。


私は幕末関連のことを調べている時にふと、グラバーに日本人妻はいなかったのか?と調べたところ倉場富三郎のことを知りました。


富三郎が残したグラバー図譜が現在長崎大学に寄贈されていますが、その紹介によるプロフィールが以下です。

 

倉場富三郎(1870-1945) 英名: Thomas Albert Glover

 彼は、幕末から明治維新にかけて活躍した著名なスコットランド人貿易商 Thomas Blake Glover の次男として1870年12月8日に長崎に誕生しました。
 学習院を卒業後、米国の Pennsylvania University, Medical Colledge で生物学を学んだ彼は、帰国後、父が設立していた「ホームリンガー商会」の社員/重役を歴任し、第二次大戦前まで長崎の実業界/社交界の中心として活躍しました。ホームリンガー商会は、1907年に長崎汽船漁業を設立し、イギリスから輸入した鋼製トロール漁船により五島沖などで操業を開始しました。グラバー図譜の編纂が始まったのはちょうどこの時期であり、水揚げされた魚介類を見て生物学を学んだ彼が、図譜の編纂を思い立ったことは想像に難くありません。
 その後、第二次世界大戦が始まると、混血児だった彼はスパイとして官憲のきびしい監視の中で苦難の生活をおくりました。そして、終戦直後の1945年8月26日、彼は自ら命を絶ってしまいました。

以上

 


つまり今日は倉場富三郎の命日なのです。私は富三郎のことを知ると同時にこの自殺を知り、昭和の時代までご存命であり、長崎原爆も生き延びながら、長崎原爆直後に死んでしまったことにとても驚きました。しかもその誕生日は12月8日です。誰しも富三郎の複雑な心情を察することが出来るのではないかと思います。


ペンシルバニア大に入学した時、富三郎は最初に記したトミサブロー・アワジヤ・グラバーの名前で入学したそうで、そのことからも母の国であり生まれ育った日本への愛着が伺えるかと思います。大東亜戦争が始まるまで長崎実業界で活躍していた倉三郎は、東洋と西洋の架け橋たるべく生きられたのだと思います。しかし、日英混血であるがために戦争中スパイ容疑をかけられグラバー邸からは退去せざるをえなくなりました。グラバー邸を維持したと書きましたが、自分の家であるから住んでいたわけで、いわばその家を富三郎は追い出されたようなものです。しかも倉三郎と同じく日英混血だった妻のワカに先立たれ子供もなく不孝な晩年を送る倉三郎が目にしたのは、西洋社会であるアメリカの核攻撃による長崎の惨禍です。


明治から昭和の時代、混血児として生を受け成長し生きていくのはとても大変な事だったと思います。そしてそれは世界中どこにいても同じだったでしょう。もしかしたら、それもあってスコットランドやアメリカに移り住まなかったのかもしれません。海外の人種差別は日本の比ではなく、なんといっても日本は世界で初めて「人種差別撤廃法案」を第一次世界大戦後のパリ講和会議で発議した国です。妹のハナは、海外で結婚され子孫がいるようですけれども、男と女ではその社会的地位が違ったからこそ富三郎は日本にいたのではないかとも考えられます。そしてもちろん複雑な心境ではあっても日本を愛していたでしょう。


スパイ行為の真偽はわかりません。しかし、そう疑われ、またやっていたかどうかは別にして、スパイとしての要請があったかもしれない。そういう狭間に生きなければならなかった倉場富三郎の自殺について考える時、現在世の中に沢山生まれているグローバルな人達のことが頭に浮かびます。例えば私の身近には、日本と韓国の混血の姉妹がいます。現在韓国人の父とは離れ普通に日本の家庭で暮らしていますが、これから成長に従い学校でいじめがないかどうか?大丈夫か?また韓国がなにか問題を起こすたびにアイデンティティが傷つけられないか?と周りはとても心配しています。これは否が応でも一生続くのです。倉場富三郎は特異な時代に生まれた混血児でしたから、特別と思うかもしれません。しかし、いつの時代も同じ、特別なことはないのではないか?と最近考えるようになりました。


検索すると若い頃の倉場富三郎の写真が3つありますが、そのどれも不幸せそうです。撮り方もあるのかもしれませんが、明らかに後から撮られた富三郎(上記写真)は生き生きした表情をしています。仕事の成功による充実もあるでしょうが、西洋と東洋の架け橋としての満足感もあったのではないだろうかと勝手に想像しています。このような生き生きとした写真を見た後で、この方が長崎の原爆に絶望し自殺されたと知るのはやはり悲しいと思うのです。



倉場富三郎、享年74歳。妻のワカとともに埋葬され、両親の墓と隣同士で長崎に眠っています。

 

 




『長崎グラバー邸 父子二代』の著者山口由美さんは何かの番組で、上記プロフィールとは少し違ったことを以前話されていました。
グラバー邸が維持されているのは、富三郎を疑ったことへの罪滅ぼしもあるのではというのもなるほどと頷けます。
しかも今となっては長崎の名所に欠かせない場所になっています。

 

 

 

 

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