北朝第一代光厳(こうごん)天皇は鎌倉幕府末期の天皇で、南北朝時代の北朝初代天皇です。


御父は後伏見天皇、御母は西園寺寧子。


諱、量仁(かずひと)


一三一三年生。


在位は一三三一年から一三三三年。


朝廷が持明院統と大覚寺統に分裂していた鎌倉時代末期、両統から順番に天皇を出す両統送立(りょうとうてつりつ)が幕府主導で行われていました。その持明院統の後伏見天皇の第三皇子として量仁皇子は誕生します。

 

 

元徳元年(一三二六年)七月、大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子になられます。

 

 

そして量仁親王の教育は、歴代随一と言われるほどの好学の君主といわれた叔父の花園上皇があたられました。

 

光厳天皇の生涯の支えとなったのではないかと思われる花園上皇の教えの一つが『一時的な屈辱を受けても、将来的に栄誉を保つことを得るならば、その屈辱を我慢することができる。』ですが、光厳天皇の御生涯は屈辱の連続だったのです。

 

 


持明院統の第九十五代花園天皇(量仁皇子の叔父)が退位して大覚寺統の後醍醐天皇が践祚するまでの御代は表面上は穏便でした。しかし後醍醐天皇が天皇親政を実現しようとして挙兵したところから激動の時代になっていきます。この時、後醍醐天皇は捕らえられ隠岐に流されました。(元弘の変)


そして幕府により廃帝とされた後醍醐天皇に代わり、持明院統の量仁皇子が践祚し光厳天皇となりましたが、後醍醐天皇は退位を拒否しており、三種の神器も渡しませんでした。

 

 

三種の神器もなく即位されたことは、光厳天皇の御生涯の波乱と苦難の幕開けだったのかもしれません。

 


その後、後醍醐天皇は隠岐を脱出し再び挙兵、幕府方の足利尊氏が後醍醐天皇側に寝返って幕府を攻め、北条氏は自刃し鎌倉幕府は滅ぶのです。

 

この時、足利尊氏軍が鎌倉幕府の六波羅探題を襲撃し、北条方は光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を伴って東国に逃れるのですが、途中佐々木道誉の軍に阻まれ近江番宿場で捕らえられ、北条方六波羅武士団は四百三十名がその場で切腹して自害する惨劇にたちあってしまうのです。

 

この後京に連れ戻された天皇と上皇ですが、後伏見天皇は絶望のあまり出家され、光厳天皇にも薦めたといいます。しかし、天皇としての役割があることから光厳天皇はきっぱりこれを断られたのです。


しかし後醍醐天皇が京に戻ることにより、光厳天皇は廃帝となりました。この時、後醍醐天皇は「朕の皇太子の地位を退き、天皇年は即位していないが特例として上皇待遇とする。」とされています。というのも、後醍醐天皇は幕府による廃位を認めておらず三種の神器も渡されていないことから、即位は無効とされたのです。これが後に南朝が正統と言われる所以です。そしてこのために光厳天皇は御歴代の天皇としては数えられていません。


後醍醐天皇は建武の新政を開始しますが、政権の支えである武家がないがしろにされたと感じた足利尊氏が反旗を翻します。後醍醐天皇の忠臣楠木正成は尊氏との和睦を進言しましたが、それを拒否して尊氏追討を命令。尊氏はいったんは九州に退きますが、光厳院の後醍醐天皇討伐の院宣を手にして京へ向かった尊氏は新田義貞・楠木正成軍を湊川の戦いで破ります。


入京した尊氏は光厳天皇の弟を光明天皇に立て、光厳院の院政が始ります。そして光明天皇から征夷大将軍に任じられ室町幕府が始まるのです。そのため光厳天皇は両立の北朝第一代目となりました。

 


その間、後醍醐天皇は尊氏の和睦を受け入れ、三種の神器を光明天皇へ引渡します。


しかし後醍醐天皇は引渡した三種の神器は偽物であると宣言して京を脱出。自らの皇位の正統性を主張して奈良盆地の南側の吉野で南朝を開きました。実質上の南北朝時代はここから始ります。


その後室町幕府内で観応の擾乱と呼ばれる抗争があり、尊氏は南朝と和睦、光厳院の院政も停止。北朝第三代崇光天皇(光厳の第一皇子)も廃されました。南朝はこの機に乗じて京都を占拠し、北朝が所持する偽の神器を接収しました。しかし、足利義詮の入京で劣勢になると光厳院・光明院・崇光院を拉致し吉野の西南の賀名生に五年あまり軟禁するのです。


幕府は天皇により、征夷大将軍に任じられているのに、天皇・上皇ともに不在となり困惑しますが、仏門に下っている光厳院の第二皇子を次の天皇とするのです。(後光厳天皇)


北朝は室町幕府により無理矢理誕生したものともいえ、この皇統の対立や譲位に関する問題が、後の皇室典範に影響を与えることになりました。光厳天皇は、こうした時代に生まれたがために皇統と幕府に翻弄され続けた天皇だったのです。


一三六四年崩壊。

 

 

遺詔により光厳と追号されましたが、「光」の文字は光仁天皇以降、系統が変わった時に使用されてきた字ですから、後醍醐天皇と室町幕府に翻弄されたことに最後に意地を見せた追号ではないかと思われるのです。


陵は山国陵、京都府桑田郡京北町大字井戸小字丸山 常照皇寺内にあります。


参照:「宮中祭祀」
※祭日はこの本によります。

「天皇のすべて」
「天皇を知りたい」
「旧皇族が語る天皇の日本史」

「歴代天皇で読む日本の正史」