北朝第二代光明天皇は、室町時代が始まった時の天皇です。
 


御父は後伏見天皇、御母は西園寺寧子。同母兄は北朝初代の光厳天皇(後醍醐天皇により在位を否定され、三種の神器をもって即位されたにもかかわらず御歴代の天皇としては数えられていません。)


御名は豊仁(ゆたひと)。


在位は一三三六年から一三四八年。


鎌倉時代末期、後醍醐天皇に従って幕府を攻めた足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇は光厳天皇を廃して天皇に返り咲きます。しかし、足利尊氏は鎌倉幕府を裏切って幕府を滅ぼしましたが、今度は後醍醐天皇を裏切り建武政権から離反します。尊氏は本来「高氏」でしたが、「尊」の字を後醍醐天皇の御名である「尊治」から賜ったのですが、この裏切りにより「高氏」に戻りました。そして湊川の戦いで後醍醐天皇は敗北し吉野へ逃れました。後醍醐天皇の朝廷を吉野朝、いわゆる南朝といいます。


足利高氏は入京し、光厳天皇の弟、豊仁親王を即位させました(光明天皇)。しかし皇位のシンボルである三種の神器が後醍醐天皇に持ち去られていた為、神器不在の即位でした。こちらはこれまで通りの朝廷でありますが、いわゆる北朝といわれます。

 

そして足利高氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、名実ともに室町幕府の初代将軍となるのです。


しかし北朝は足利氏が幕府の権威付けの為作り上げたようなもので、実際三種の神器は南朝が保持し、また北朝初代光厳天皇と光明天皇は、上皇の詔宣により践祚したため、先帝から譲位を受けた天皇ではなく、総じて北朝は正統性が疑わしいとされています。一方で三種の神器がない状況での即位は、後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位さた先例にならったもので、この時代は三種の神器が皇位継承の絶対条件ではなかったともいいます。しかし、三種の神器が重要であるからこそ受け渡しなども行われることになるわけですから三種の神器が重要であったことは事実です。


一方同じ年に、吉野では後醍醐天皇が南朝を開かれ、京の北と吉野の南の南北に分かれた二朝並立時代が五十六年続く時代が始まり、全国の守護、国人が北朝方と南朝方に分かれて争うこととなりました。


二つに分かれ、また争ったわけですから、これはその後の天皇の権力衰退の大きなきっかけとなっていきます。


一三四八年、光厳上皇第一皇子の益仁親王へ譲位(崇光天皇)。兄の光厳天皇による院政が行われました。


その後、高氏の執事の高師直と弟の足利直義の間で観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれる抗争があり、政争に敗れた直義は南朝へ帰順しました。高氏と直義の対立も深まり、高氏は南朝と和睦し、北朝の光厳院の院政は停止され、第三代崇光天皇は廃されます。


南朝軍はこの機に乗じて、京都を占拠しましたが、足利義詮の入京で劣勢になると、光厳院や崇光院らと光明院を拉致し、吉野の西南の賀名生(あのう)に軟禁します。


北朝の天皇が廃された上、歴代の上皇が京都から連れ去られたので幕府は困惑します。というのも、上皇不在では上皇の詔宣すら得られないからです。この時妙法院への入室が予定されていた光厳上皇の第二皇子弥仁親王に即位を願いました(後光厳天皇)。光厳上皇、光明上皇の母君である広義門院に圧力をかけ代役とさせて「譲国詔」を発令させたのです。


光明院は一三五五年に京に戻り、落髪して仏道に入った後は各地を巡歴され仏道に精進されました。


室町幕府は開かれた後も安定した政権ではなく初代将軍高氏は北朝を開きながら南朝に帰順したり、兄弟間の争いもありました。南北朝の争いも続き、京は何度も騒乱の舞台となり、北朝の上皇が幽閉されたりもしたそんな渦中のただ中にいたからこそ光明院は仏道に精進されたのかもしれません。


一三八十年、大和国長谷寺にて崩御。

 

 

遺詔により「光明」と追号されました。傍系等による皇位継承等転換期となる天皇の号は光仁天皇以降、「光」で始まっていることから、縁の寺の名前を使いながら皇統としての遺詔をされたものと思われます。


山陵は大光明寺陵、京都市伏見区桃山町大長老にあります。


参照:「宮中祭祀」展転社
※祭日はこの本の日付によります。
「旧皇族が語る天皇の歴史」PHP新書
「天皇のすべて」Gakken
「天皇が知りたい」Gakken
「歴代天皇で読む日本の正史」錦正社

 

 

最近は「太平記」が書かれたこの頃の時代の書物が人気です。婆娑羅大名と言われる人達を輩出したこの時代が面白いという人も多いです。

一方で、この時代の天皇は皇統が別れ天皇としての存在意義まで貶められるような厳しい時代の中、天皇としての伝統を維持していました。こういっては畏れ多いのですが、どの時代の天皇よりも人間味が増してみえるのがこの頃の天皇だと思いますし、天皇としての存在意義を思い悩んだのではないかと思います。

こうした時代の本を読まれる時には、天皇についても是非意識してみてほしいと思います。

なお、後醍醐天皇は破天荒過ぎるということは、忘れないようにしてください。