本日2月24日は、平成元年、1989年1月7日、昭和天皇が崩御された後、天皇陛下の葬儀の儀式である大喪の礼が行われた日です。この日は公休日となり、私はテレビで雨の中の儀式を見た覚えがあります。当時はなにも考えていないような若い時でしたが、このような儀式の中継をテレビ越しですが見られたことは今思えば本当に良かったと思います。

 

前年は異常な冷夏で、夏寒いということを初めて経験し、夏が大好きな友人は「夏はどこ行ったんだ~!!」と叫んでいたのを笑いながら見ていた年でした。この年の秋に昭和天皇は吐血されたのです。そして大喪の礼は雨でした。太陽神である天照大御神に繋がる天皇ならではの天候だったのだと今では考えています。

 

 

 

 

 

 

私はこのような儀式があるというのをこの時初めて知ったのですが、昭和天皇はご在位が長かったものですから、同じように初めて知った人が日本中に多かったろうと思います。

 

この儀式は昭和天皇最後の御行幸です。

お若い時に即位されその御在位は御歴代随一の激動の時代でしたが、昭和天皇は日本と日本人を御守くださったと多くの人々が考えていました。そんな天皇との最後の別れを立派に葬送するのは国民として当然のことでした。

 

 

私は始めて見るその儀式に驚くのと同時に何も考えていないながらも、このような立派な葬儀が我が国のあり方として存在するという事に驚きと畏敬の念が湧いたのも確かだったのです。だからこそ、テレビから目が離せませんでした。一定年齢以上の人々の中には、この時の光景が記憶に刻まれているものと思います。

 

 

大喪の礼には、世界中から各国の国家元首や使節、大使ら164カ国、27機関の700人に及ぶ人が参列したとウィキペディアに書かれています。参列者名も書かれていますが錚々たる顔ぶれで、日本の外交がいかに天皇、皇室によって成り立っているかが理解できるものとなっています。そしてこのような多くの参列者には、やはりこのような葬儀が相応しいとも思うのです。

 

 

昭和天皇は、質素を好み必要以上に派手な装いなどはしなかったと伝わりますが、しかし国民の恥になってはいけないとスーツを新調されると、とても大切にされて帰られるとすぐに古い服に着替えたといいます。立派な葬儀はそれと同じ事です。内には国民の気持ちの表れでありますが、外には、立派な国であるという外国への表明でもあるという二面性があります。

 

 

だからこそ、御歴代の天皇が質素な葬儀をという意思を表しても、その時できうる限り立派な葬礼をしてきたのが我国であると思います。そうしたことを今日のこの日ほど考えるのに相応しい日はないかと思います。譲位されてもされなくても天皇に変わりはないということも忘れてはならないことだと思います。

再 「大葬の礼は、天皇陛下の”最後の御行幸”である」

 

 

ところで、この2月24日という日がどのように選択されたのか?当時の葬儀委員長である竹下総理に国会で問いただしたいほどの思いがあります。

 

 

なぜなら、この前日は皇太子殿下(当時はまだ立太子はされていませんでしたが事実上の皇太子となられていました)のお誕生日でした。殿下の誕生日の翌日にされるなら、なぜ前の22日にしなかったのでしょうか?そのような気配りがあっても良かったのではないかと思います。もちろん、このような時期にお祝いはされないにしてもです。

 

 

そしてなによりも、この日が昭和8年(1933年)の国際連盟の常任理事国だった日本が脱退することになる国際連盟総会の投票日で、中国の統治権を承認し、日本軍の撤退を求める報告案に対して、賛成42、反対1、棄権1という形で各国の意志が示され、反対票を投じた松岡洋右他の日本代表が議場から退場した日だったことは特筆すべきことかと思います。3月27日には国際連盟脱退に関する詔書を発表するとともに連盟に脱退を通告しています。そしてこれが大東亜戦争へにも繋がっていったともされる日です。なぜそのような因縁のある日を大喪の礼の日にしてしまったのか。

 

 

このような日程を決める時に、その日を調べていないはずはありません。このような歴史に残る日を、昭和の時代に関連のある日に設定すべきではありませんでした。このような日に決定した、当時の竹下総理には疑念を抱いてしまうのも致し方のないことだと思います。

 

 

戦後の日本では理不尽な事がたくさんありました。その最たるものの一つに東京大空襲の責任者であるカーチス・ルメイに勲章をあげたことがあります。この時通常は陛下から手渡しするものですが、昭和天皇は面会も授与も拒否されたと聞いています。しかし、天皇の名の元に勲章はあげられ、天皇はその事を拒否出来なかったのですから、どんなに無念だったことでしょう。天皇陛下は御言葉通り堪え難きを堪え忍び難きを忍んでいらっしゃったのですが、崩御後までも、このような曰くある日程を設定されていたとは本当に申し訳なく思います。

 

 

なにしろGHQは日本でやることを全てなんらかの日に関連づけて行っていました。一番有名なのは、東京裁判でいわゆるA級戦犯をされた方々の死刑を当時の皇太子殿下の誕生日にぶつけて実行したことがあげられます。当時の皇太子殿下とは、今上陛下の事です。

 

 

私達は、天皇陛下の誕生日をお祝いする時、同時にその日に文句も言わず処刑された方々の事を悲しく思いますが、一番考えさせられているのは今上陛下なのです。

 

 

そうしたことを知るにつけ、昭和天皇の大喪の礼をわざわざこの日にしていることに疑問を感じるのもいたしかたのないことだと思います。そして当時、このような日程を反対するような人が他にいなかったのかと思うと残念ですし、歴史をちゃんと学ばないことの浅薄さを感じるのです。

 

 

戦後、歴史をきちんと教えられることがなくなりましたが、最近は自ら探究する人が増え、良書も沢山でていますから、時代は変わったと思います。

 

 

そして私達が実際に体験したことは、繰り返し繰り返し忘れないように伝えて行くのが今を生きる私達の務めだと思います。