土曜日に初めて知って驚いたこととは、大阪城が「民のかまど」の場所だったこと。きっと、地元の人ならなにを今さらのことかもしれませんが、今まで一度もそんな話聞いたことなかったので、何でこんな凄いこと伝えてないんだろう、と考えたしだいです。



高津宮境内にある「郡戸王子碑」には、写真のように秀吉が大阪城築城の際に場所を移させて今の高津宮の位置になったと書かれているのです。仁徳天皇陵で狩りもしたというし、秀吉はしょうもないなと思いつつ、大阪城が仁徳天皇の宮のあった場所ならもっと知られていいのではないの?と。ちなみにこの郡戸王子は「九十九王子」の内の一つ。これもなんだか知らなかったのだけど、都から熊野古道沿いに「王子社」があってそれが九十九あったとか。その一つが高津宮にもあったと伝わる、そういう意味の碑らしい。



で、高津宮が載っているのを見つけて買ったばかりの「歩いて楽しむ大阪」の高津宮の箇所をよく見たら、そこには高津高校に高津宮跡地の碑がある、と書かれていました。現在の高津宮より、東の位置です。しかし、この碑自体が道路の拡張か何かの際に移されたとか。え~、じゃあ元の位置じゃないんだ・・・。



どちらにしろ高台のイメージがあるのに、だから高津宮は思ったほど高くなかったのかと納得。実はガイドブックに土地の高低も描かれているのですが、低いんです高津宮。



ということで、現在の大阪城は天守閣だけだし、早速一番大きかった当時の大阪城の地図を検索してみました。



そうしたら・・・あれ?高津宮も高津宮跡の碑も外濠より外の位置です…。どういうこと?



それでガイドブックの大阪城のところを見たら、そこに難波宮跡があるじゃないですか。そこは孝徳天皇と聖武天皇の二回分の宮の跡があるという。えっ、じゃあここら辺に仁徳天皇の宮もあったんじゃない?と普通に思ったら、やはりここいら辺にあった説があるという。



そうだよね、大阪城の前は石山本願寺、その立地の良さで造られたというのだから、その辺りに古代の宮があっても不思議じゃない。で、そのガイドブックの大阪城周辺の高低を見たら、難波宮跡は大阪城よりも高い位置にある。



なんか面白くなってきました。



ということで、結局検索すればするほど高津宮がどこかわからなくなってきたのだけれど、高津宮のあった場所として大阪城の場所をあげるのはおかしくないということもわかってきました。


ネットにあった、高津宮の場所説は以下の通り。

①生国魂神社・・・ここも基は大阪城内にあったのが大阪城ができるときに現在の場所に移ったもの。その元の生国魂神社の地が、高津宮の場所だとするもの。
②座摩神社・・・ここも生国魂神社同様。
③難波宮の西端・・・日本書紀の仁徳天皇14年の条からこの辺りとする説。
④上町台地の北端・・・同じく日本書紀の38年の条からの説。


大阪城を見る目が、これからは変わりますね。


次に行くとき、ここを巡ってみたいかもです。


しかし、高津宮(神社)は、高津宮としてともて気に入ってしまいましたので、またお参りしたいです。ここはほんとうに素敵な神社です。