世界三大墳墓といえば、仁徳天皇陵と始皇帝陵、クフ王のピラミッドです。そしてその規模から、無理矢理の苦役で造られたと言う人達が必ずいますし、古代には、そんなイメージがあります。

ところが以前も書きましたが、仁徳天皇陵はその土の盛り方から民が喜んで造ったものらしいという説があり、古事記に書かれた断片と一致しています。奉仕の心で民が造ってしまったのだとすれば凄いことです。

一方で長い間、映画や古代の物語などで奴隷が働かされたというそのままのイメージを見せつけられてきたのがピラミッドです。しかし今、それは違うというのが定説となっているそうです。

どういうことでしょうか?

ナイルの氾濫がその流域を肥沃にしたというのは、日本人なら古代重視の歴史教育で一度は習ったかと思います。ナイル川といえば大きいですから、その氾濫の期間も長かった。四ヶ月です。古代エジプトでは98%が農民だったそうで、国の大半の人達が一年の三分の一の期間なにもやることがなくなっていたのです。当然収入もない。そこで国王が仕事を作ったのがピラミッドだというのです。

ナイル川が氾濫している時期に工事をするのは石を運ぶに都合が良いというのは、やはりみな一度は習ったことだと思います。この氾濫の時期に工事をすることにより、巨大なピラミッドができ、また大勢の農民に仕事を提供できたわけです。

つまりピラミッドこそ公共事業の先駆け、象徴なんです。

みな仕事があるので嬉しかったのでしょう、ピラミッドに遺された落書きには「国王万歳」とか「帰ったら腹一杯食おう」などの明るいものがあるんだそう。

奴隷達が苦役で造ったピラミッドと、農民が喜んで造ったピラミッドでは、イメージが全く違います。

考えてみれば、奴隷によって造られたと長らく考えていたにも関わらず、ピラミッドには不思議な存在感があって、人々を魅了してきました。それは、太陽神がいたからか砂漠のせいなのか、それとも絵文字のせいなのか、明るい印象だと私は感じていたのですが、それは案外人々の喜びで造られたものだからなのかもしれません。(いつかは生で見て直にその雰囲気を味わいたいものです)

このピラミッドの話で思い出したのが、以前ここで紹介した新潟の豪農のお屋敷です。そこは昭和の頃、周辺が震源の大地震が起きたとき、回りがみな倒壊した中、ほとんど無傷で残り当時話題になったというもの。

それを不思議に思った人が、その豪農のお屋敷に行き色々話を聞いたら、そこにある庭園が手造りされたものだとわかりました。

手造りというのは、機械も道具も使わずに手だけで造ったという手造りです。本当に手だけで造ったという意味の手造りだったのです。

それは、その頃よりさらに昔のこと。災害により多くの人達が家をなくし、大きなそのお屋敷が被災者に解放されたときのことです。いつ復興できるか先の見えないときに、当時の当主が庭園造りを被災者達に頼んだのです。ただ条件が1つあり、それが道具を使わないことでした。最初は皆いぶかったそうです。なぜ道具を使えばすぐできるのに、そんな面倒くさいことをするのかと。

が、後になってみな気づくのです。

手だけでやれば老若男女に仕事ができますし、たくさんの人に仕事が行き渡ります。老人にも子供にもです。しかも手作業では完成までに時間がかかりますから、その期間は長期に渡ります。時間がかかればかかるほど、庭園造りをしている人達に長い間収入があったのです。だから完成したときには、お陰で死なずにすんだという人がたくさんいたそうです。

その庭園を造った人達は、庭にも家にも豪農にも感謝し、また自然災害の多い日本ですから、そういう皆を助けてくれる豪農の家のようなところはいつも無事でいてほしいと願いながら造ったでしょう。その思いがこもった場所だからこそ、また皆を助けられる場所でもあるからこそ、不思議な導きで次の災害時にそこは無事だったのだろう、というのです。

その庭園には築山があるそうですが、それは新潟のピラミッドなのかもしれません。

「三方よし」で有名な近江商人は、「お助け普請」を進んで行ったことでも有名です。これは自然災害などで仕事がなくなると、必要かどうかに関わらず家を造ったりして雇用を生んだもの。日本各地に移り住んだ近江商人が昔から率先して行ってきたことの一つです。これは個人で行われた公共事業のようなものですが、近江商人は社会貢献を大切にしていたのです。

公共事業や社会貢献は、結局個人に返ってくるもの、個人だけで終わるものや公共だけで終わるものなんて世の中にはないんですよね。

参考:「美しい『形』の日本」田中英道著、他