前回に引き続き、歴史上最も貧窮した後奈良天皇のお話です。


後奈良天皇は一五四五年に伊勢神宮に謝罪のための自筆の宣命をささげており、京都御所東山御文庫に現在所蔵されています。


なぜ伊勢神宮に謝罪したかというと、皇位継承に伴なって行うべきなのに行われていない大嘗祭の主祭神、天照大神が神宮にまつられているからです。


その内容とは、
「伊勢神宮にかしこみつつしんで申しあげます。自分が皇位についてすでに20年。しかしいまだに大嘗祭をおこないたいという願いを達することができていません。


これは、おこたる気持ちがあってのことではなく、国の力の衰えによるものです。どうぞおわかりください。


国内に公道は行われず、下克上の風潮が盛んで、各地のみつぎ物もとどこおり、武士らが力に任せ…皇位の将来さえ、あぶない状態です。


どうか神のお力をいただき、国内の平和回復、民衆の繁栄、皇位の安定を実現し、ついに大嘗祭もおこなえますように、つつしみかしこんでお願い申し上げます。」



後奈良天皇が願っていることの内容と優先順位にご注目下さい。


一、平和回復
二、民衆の繁栄
三、皇位の安定
四、大嘗祭の執行


大嘗祭が行えないことを詫びて、その執行を願うための宣明なのに、この順番です。これは、平和の回復と民衆の生活向上あってこその大嘗祭との考えによるものです。


当時の状況では、大嘗祭を行えないのは天皇自身が一番わかっていたでしょう。しかし、「民と向きあう天皇像」を確認する大嘗祭の大切さを考えると、簡単には断念できなかったのでしょう。そしてそうした気持ちが代々の天皇に引き継がれたからこそ、後の大嘗祭復活に繋がったのでしょう。


大嘗祭が復活したのは1687年、後奈良天皇が伊勢神宮にお詫びしてから142年後の江戸時代のことです。(221年間の中断でした。)


最後に、後奈良天皇の時代の正月15日のサギチョウ(のちの民間のどんど焼きの源流)の行事に集まった見物人の数をお伝えします。


二万人ほどだそうです。


当時の人口はおよそ1227万人ですから、割合でいえば今でいう20万人です。これは当然天皇への敬愛などの表れでしょう。



参照・抜粋:「日本の10大天皇」高森明勅著、幻冬新書

 

なお高森氏の天皇についての著書を何冊か読み気に入っていましたが、

これだけ天皇について調べていて天皇をご存知のはずなのに、

以外にも女系天皇、女性天皇についての知識ないことに驚いています。

高森氏のご著書を読む場合はその点にご注意ください。
2016.10.7追記

 

2017.4.30追加↓高森氏の背景に納得いたします