昨日、
近所のスーパーに行ったんです。
夕方の、
ちょうどお腹が空く時間でした。
ふと、
青果コーナーの端っこを見ると、
石焼き芋の機械が置いてあったんです。
あの、
甘い匂いが漂ってくる、
黒い箱です。
「あ、
焼き芋だ。」
そう思って、
足が止まりました。
この、
「焼き芋」という存在。
日本人なら、
誰もが一度は食べたことがあると思います。
ほかほかの、
あの黄色い中身。
湯気がふわっと上がって、
皮をめくると、
蜜がじゅわっと染み出している。
想像しただけで、
お腹が鳴りそうになります。
価格を見ると、
一本二百五十円でした。
「これは、
安いのか、
高いのか。」
ふと、
そんなことが頭をよぎりました。
スーパーの棚を見渡すと、
一袋百円のバナナがあったり、
一パック二百円のカット野菜があったりします。
そう考えると、
芋一本に二百五十円というのは、
少し贅沢な気もしてきます。
でも、
家で一から作ろうとしたらどうでしょうか。
サツマイモを買ってきて、
オーブンでじっくり焼いて、
何十分も待つ必要があります。
電気代もかかります。
そう考えると、
二百五十円という値段は、
プロが完璧に焼き上げてくれた時間と手間を買う、
という意味でもあるわけです。
ここで、
一つの疑問が浮かび上がります。
「では、いったい、
私たちは何を買っているのでしょうか?」
ただの、
芋を買っているのでしょうか。
それとも、
「温かいくつろぎの時間」を、
買っているのでしょうか。
問題は、
ここからです。
私は、
スーパーの焼き芋の前で、
仁王立ちになって考えてしまいました。
後ろから、
お惣菜をカゴに入れたお母さんがやってきます。
「ちょっと、
邪魔だな、
この人」
そんな視線を、
背中に感じた気がしました。
でも、
私は動けません。
なぜなら、
これは、
ただの「買い物の迷い」ではないからです。
もっと、
根深い問題なのです。
世の中には、
「買う人」と、
「買わない人」がいます。
いや、
正確に言うと、
「その場で即決できる人」と、
「永遠に悩む人」がいます。
私は、
間違いなく後者です。
何かを買うとき、
いつも人生の選択をしているような気持ちになってしまうのです。
たとえば、
これが車だったらどうでしょう。
数千万円の高級車を前にした社長さんと、
何が違うというのでしょうか。
金額の桁は違いますが、
「自分のリソースをどこに投入するか」という本質は、
まったく同じなのです。
そう考えると、
私の目の前にある二百五十円の焼き芋は、
地球上のあらゆる経済活動の縮図と言っても過言ではありません。
大げさだと思いますか?
いいえ、
そうではないのです。
ここで、
少し、
話しは変わりますが、
昔の偉い学者さんも、
似たようなことで悩んだのではないでしょうか。
ソクラテスとかが、
アテネの市場で、
「このオリーブは本当に買うべきか」と、
真剣に悩んでいた姿を想像してみてください。
きっと、
私と同じ顔をしていたはずです。
人は、
何かを選択するとき、
常に未来の自分と対話しています。
「これを食べたあとの私は、
幸せになっているだろうか?」
「食べたあとに、
皮を捨てる手間をめんどくさいと思わないだろうか?」
「明日、
体重計に乗ったとき、
絶望しないだろうか?」
たった一本の焼き芋の向こう側に、
無限の可能性と、
無限のリスクが広がっているのです。
では、いったい、
どうしたらいいのでしょうか?
答えは、
シンプルです。
買えばいいのです。
たった二百五十円です。
人生を揺るがすような大金でもなければ、
世界経済を揺るがすような重みもありません。
ただの、
おやつです。
なのに、
私たちはなぜ、
こんなにも真剣に悩んでしまうのでしょうか。
それは、
私たちが「慎重に生きている証拠」なのかもしれません。
いや、
単に、
決断力がないだけかもしれません。
でも、
私は自分のこの性格を、
ちょっとだけ誇りに思いたいのです。
何でもかんでも、
ポイポイカゴに入れていくような、
そんな雑な生き方はしたくない。
一つひとつの商品と、
真摯に向き合いたい。
そんな思いが、
あるのです。
結局、
どうなったと思いますか?
私は、
その焼き芋を、
どうしたでしょうか。
買ったのでしょうか。
それとも、
諦めたのでしょうか。
実は、
買わなかったんです。
なぜなら、
ふと横を見たときに、
「焼き芋の横に並んでいた、
半額シールの貼られたおはぎ」が、
目に入ってしまったからです。
「えっ、
おはぎ、
百二十円!?」
私の心は、
一瞬でそちらに持ってかれました。
焼き芋の哲学的考察は、
どこかへ吹き飛びました。
人間の心なんて、
そんなものです。
どれだけ高尚なことを考えても、
「半額」という二文字の前には、
あまりにも無力なのです。
でも、
それでいいのだと思います。
人生なんて、
計画通りにいかないからこそ面白い。
深い思索の果てに選んだのが、
半額のおはぎだったとしても、
それはそれで一つの正しい結論なのです。
私たちは、
日々の生活の中で、
たくさんの選択をしています。
何を食べ、
何を買い、
どこへ行くのか。
その一つひとつに、
私たちの生き様が刻まれているのです。
だからこそ、
スーパーの通路で立ち止まり、
焼き芋を見つめるその時間を、
愛おしく思うべきなのかもしれません。
次にスーパーに行ったときも、
私はまた同じ場所で立ち止まり、
同じように悩むことでしょう。
そして、
また違う何かを見て、
人生について考えてしまうはずです。
それでいいのです。
それが、
人間らしく生きるということなのですから。
本当に、
日々の生活って、
奥が深いですね。
たとえば、
私たちが普段何気なく見過ごしているもの。
それは、
スーパーの棚だけではありません。
もっと身近な場所にも、
たくさんあります。
たとえば、
朝、家を出るときに見上げる空。
あるいは、
道端にひっそりと咲いている小さな花。
私たちは、
そんな景色さえも、
見ているようで見ていないのかもしれません。
忙しい毎日に追われていると、
目の前のことだけで精一杯になってしまいます。
電車の時間を気にして、
今日の仕事の段取りを考えて、
夕飯の献立を頭の中で組み立てる。
頭の中は、
いつも予定とタスクでいっぱいです。
余裕なんて、
どこにもありません。
では、
いったい、どうしたらいいのでしょうか?
すべてを投げ出して、
どこか遠くへ旅に出ることでしょうか?
きっと、
そういうわけではないと思います。
遠くに行かなくても、
日常を変える方法はあります。
それは、
「立ち止まる」ということです。
ほんの数秒でもいい。
ほんの一瞬でもいい。
足を止めて、
目の前にあるものに目を向けてみる。
それだけで、
世界の見え方が、
ガラリと変わるのです。
ここで、
少し、話しは変わりますが、
私の知人に、
とても面白い趣味を持っている人がいます。
その人は、
街を歩きながら、
「マンホールの蓋(ふた)」ばかりを写真に撮っているのです。
最初は、
変な趣味だなと思いました。
道に埋め込まれている鉄の板ですよ。
どこにでもあるし、
誰も気に止めないものです。
でも、
その人が撮った写真を見せてもらって、
私は驚きました。
そこには、
驚くほど美しい世界が広がっていたのです。
街のシンボルがデザインされていたり、
錆(さび)の具合がいい味を出していたり、
一枚のマンホールが、
まるで小さな芸術作品のように輝いていたのです。
その人は、
こう言っていました。
「足元には、宝物が眠っているんだよ」
と。
私は、
その言葉を聞いて、
ハッとさせられました。
私たちは、
遠くばかりを見つめて生きているのかもしれません。
もっと大きな成功。
もっと素晴らしい未来。
もっと輝かしい自分。
そんなものばかりを追い求めて、
足元にある大切なものを見落としているのです。
スーパーの半額のおはぎも、
道端のマンホールも、
同じことなのだと思います。
どれも、
私たちが生きるこの世界の一部です。
見方を変えれば、
退屈な日常なんて、
どこにも存在しないのです。
すべてが、
面白さに満ちている。
すべてが、
感動の種に満ちている。
そう考えると、
なんだかワクワクしてきませんか?
目の前にある世界が、
少しだけ優しく見えてくる気がします。
では、いったい、
なぜ私たちは普段、
そんなことにも気づけないのでしょうか?
それは、
私たちの心が「曇って」いるからなのです。
心のレンズが汚れているから、
美しい景色も、
面白い出来事も、
すべて灰色に見えてしまう。
曇りガラスの向こう側を見ようとしても、
ぼんやりとしか見えません。
だからこそ、
そのガラスをピカピカに磨く必要があるのです。
どうやって磨くのか?
特別な道具は要りません。
お金もかかりません。
ただ、
「面白がる心」を持つこと。
ただ、
「味わい尽くす姿勢」を持つこと。
それだけでいいのです。
たとえば、
目の前にある失敗。
仕事で大きなミスをして、
上司にこってり絞られたとします。
最悪の気分です。
早く家に帰って、
布団をかぶって寝てしまいたい。
そう思うのが普通です。
私も、絶対にそう思います。
でも、
そこで少しだけ視点を変えてみる。
「これは、小説のネタになるぞ」
と。
あるいは、
「今日の晩酌のビールが、最高に美味しくなるための前フリだ」
と。
そう捉えてみるのです。
もちろん、
現実はそんなに甘くありません。
怒られたショックは簡単には消えないし、
凹むものは凹みます。
それでも、
心の中に小さな隙間を作ってあげる。
「まあ、いっか」
と思える余白を残しておく。
それだけで、
人生の重さが、
ふっと軽くなるのです。
重い荷物を背負って歩いているとき、
ほんの少し紐を緩めるだけで、
驚くほど楽になりますよね。
それと同じです。
自分の心を、
自分で楽にしてあげる。
自分を、
自分で抱きしめてあげる。
そういう優しさが、
私たちには必要なのだと思います。
もっと大きな話をしましょう。
私たちが生きているこの宇宙は、
奇跡の連続でできています。
地球がこの絶妙な大きさで、
太陽からこの絶妙な距離にあって、
水が液体として存在できる奇跡。
その地球の上に、
私たちがこうして生まれてきて、
息をしている奇跡。
考えてみたら、
私たちは奇跡の塊なんです。
そんな奇跡みたいな空間で、
私たちは今日を生きています。
スーパーに行って、
焼き芋の値段に一喜一憂して、
おはぎの半額シールに心を揺さぶられている。
一見すると、
とてもちっぽけな日常です。
でも、
そのちっぽけな日常の背後には、
広大な宇宙の歴史と、
壮大な命の営みがあるのです。
そう思うと、
なんだか胸が熱くなりませんか?
私たちは、
ただ生きているだけで、
スゴイことなんです!!
本当に、
奇跡的な存在なんです!!
だからこそ、
自分を卑下する必要なんてありません。
誰かと比べる必要もありません。
あなたがあなたとして、
この世界に存在しているだけで、
それだけで大正解なのです。
次に、
またスーパーの焼き芋コーナーの前を通るとき。
あるいは、
街で変な形のマンホールを見つけたとき。
ふと思い出してみてください。
「ああ、自分はいま、奇跡の真ん中にいるんだな」
と。
そんなふうに思えたら、
今日の夕暮れも、
少しだけ違った色に見えるかもしれません。
明日からの景色が、
少しだけ面白く感じられるかもしれません。
人生なんて、
案外そういうものなのだと思います。
大げさな目標を掲げなくてもいい。
立派な人間になろうとしなくてもいい。
ただ、
目の前にある小さな出来事を、
面白がりながら、
味わい尽くしながら、
生きていけばいい。
そうやって、
自分なりの答えを見つけていく。
それこそが、
私たちがこの世に生まれてきた、
本当の意味なのかもしれません。
さあ、
今日もそろそろ夕方です。
今日の晩ご飯は、
何にしようでしょうか。
もしかしたら、
またスーパーの惣菜コーナーで、
半額シールを探しているかもしれません。
それでいいのです。
それが、
私の、そしてあなたの、
愛おしい人生なのですから。