『随分ご機嫌だね』
突然、歩き続ける花の頭の中にそんな声が聞こえてきた。
『でも、気を付けて。この森は君が考えているほど甘い世界じゃないよ』
しかし花にはまるで動揺した様子が見られない。
それがさも当然のように花はその声に対応した。
「そう心配ばかりしないでよね。私達は『約束』をして正式なパートナーになったんでしょ?なら私のことをもっと信用してほしいな」
花は頭の中に聞こえてきた声にそう自分の口で答えているので、その光景はちょっとおかしかった。
他人から見れば、花が自分の頭の中にいる空想の住民とおしゃべりをしているか、もしくは花にしか見えない透明なお友達でもいるようにしか思えないだろう。
つまりちょっと変わった子に見えるのだ。
『君は無茶ばかりするからね。ここまでの道中、ぼくがどれだけ心配しながら君の行動を見守っていたか想像できるかい?』
その声は子供の声だった。
受ける印象は花よりも少し年下といった感じだが、その言葉の内容は花よりも随分しっかりしているように思える。
「でも、ちゃんと森に着いたでしょ?」
腰に手を当て、花は自信満々で返事をする。
『それはぼくの忠告のおかげだよ。君の方こそ、もっとぼくの言葉を信用してほしいものだね』
それに対して声は常に冷静沈着だった。
「はいはい、わかってるって。ちゃんと頼りにしてますよ」
花の口調はくだけているが、それは花が演技をしていないという証拠でもあった。どうやら声の方はともかく、花の方は声のことをちゃんと信用しているようだ。
『本当かな?』
半信半疑で声は言う。
「本当よ」
そう言ったあとで花は道の途中で立ち止まった。
『どうしたの?』
声が聞く。
「別れ道」
花が短く声に答えた。
花の言葉通り、少し先で森の中の一本道が左右に枝分かれしていた。
どうやら花はそのどちらの道に進むか迷っているようだ。
「ねえ、魚。どっちが正解の道なの?」
花は不思議な声のことを『魚』という名前で呼んだ。
『うーん、ちょっとわからないね』
魚は花の質問にそう答える。
「わからないってどういうこと?あなたは私を小夜のところまで案内してくれる約束でしょ?」
花は魚の回答が不満だったようで、魚に文句を言った。
『そっちこそ忘れたの?約束するときにちゃんと説明したでしょ?ぼくは今、完全な状態じゃないんだって。だから何もかもすべての答えがぼくの中に残っているわけじゃないんだよ』
魚は花にそう答える。
「つまり、忘れちゃったってこと?」
『忘れてなんかいないよ。この場所はぼくにとって、とても、とても大切な場所なんだからね』
魚はそこで言葉を一旦区切る。
どうやら何かを思い出しているようだ。
『忘れたんじゃなくて、一時的に失ってしまっているだけだよ。その『失われた記憶』を取り戻すために、ぼくは君と一緒にこの森までやってきたんだからね』
そう言って魚は笑った。
「なんか気取った言い方だね。まあ、別にいいけどさ』
納得いかなそうに花は答える。
「じゃあどうすればいいの?私の勘だと左なんだけど」
『いや、勘で進むのはよくないよ』
魚は花の提案を拒否する。
『それよりも本を開いて。きっとそこに進むべき道が示されているはずだからさ』
「本?本ってあの約束のときに使用した本だよね?」
『そう。その本だよ』
花は担いていたボストンバックを地面に下ろし、その中からそこから『一冊の真っ黒な本』を取り出した。
「よいしょっと」
花はその場にしゃがみ込み、パラパラとその本のページをめくっていく。
しばらくして花の目があるページの上で止まった。
そのページに描かれていたのはこの森の詳細な地図だった。しかもその地図は前回この本を読んだときにはそのページの上に描かれていないものだったので、花はそれを見て驚いた。
「本当にあった」
思わず花はそう呟く。
「ねえ魚。これってどうなっているの?」
『これがぼくが記憶を取り戻すっている意味だよ』
魚は言う。
『これからももし君が森の中で道を見失ったり迷ったりしたときが本を開けばいいはずだよ。絶対とは言わないけれど、そこにはきっと君の進むべき道のヒントくらいは書かれているはずだと思うからね』
「ふーん。なるほどね」
花は魚と会話をしながら地図を確かめている。
「えっと、右の道で合ってるのかな?」
『ちゃんと確認した?』
魚はすぐに花にそう聞いた。
「したよ。大丈夫、右の道であってるよ」
『一応、何か目印になるものでもこの分かれ道のところに置いておかない?』
魚はそんな提案する。
「目印って言っても、私何も持ってないよ」
『じゃあ、木に何か『印』でも刻んでおこう。それでも十分目印になるよ』
「刻むって言ったって、どうやって?」
『ナイフは?』
「持ってきてない」
『どうして?持ってくるように言ったでしょ?忘れたの?』
魚は珍しく不機嫌になる。
「違うよ。わざと用意しなかったの」
しかし花はそんなことは気にしない。
「ナイフなんて危ない物、わざわざ持ち歩く必要ないよ。そうでしょ?魚」
魚は返事を返さなかった。
花は自分の意見の方が正しいと主張するように、堂々とした態度で魚の返事を待っている。
『わかった。なら、木の枝を折っておこう』
しばらくして魚は花にそう話しかけた。
「うん。じゃあ、そうする」
花は魚の忠告通り、分かれ道の真ん中にある木の枝を手で一本へし折った。
「まあ、確かに何もしないよりはマシかな?」
『それどうするの?持っていく?』
魚は花が手に持っている木の枝のことを言っている。
「持っていかない。邪魔になるだけだもん」
『武器にもなるかもよ?』
魚は笑う。
「そんなもの私には必要ない」
しかし花はそう言ってポイッと木の枝を森の中に捨ててしまった。
「さぁ、行きましょ、魚。この先で小夜が私のことを待ってるんだからね。グズグスしていられないわ」
雨森花は何事もなかったかのように平然と右の道の上を歩き出した。
魚は沈黙している。
『君はいつも自信満々だね。何か理由でもあるの?』
しばらくして魚は花にそう質問した。
「別に何もないし、自信満々でもないわ」
花は魚にそう答える。
『そうなの?』
「ええ、そうよ」
『でも、ぼくにはそう見えるんだけどな』
魚がしつこく聞くと、花は何かを思い出したかのように微笑んだ。
『どうしたの?』
魚が聞く。
「ちょっと思い当たったことがあったのよ」
『自信満々の理由のこと?』
「ええ、そうよ。自信かどうかはわからないけど、私の筋金って感じの出来事を思い出したわ。それで少し笑っちゃったの」
『それってなんなの?教えて欲しいな』
それは魚の本心だった。
しかし花はニヤッと笑っただけで答えない。
『教えてくれないの?』
「ええ、これはダメよ」
『どうして?」
『ふふ。だって私にとってとっても大切な思い出なんだもん。絶対に魚には教えられないわ」
花はそう言うと、組んだ両腕を空に向かって高く突き出しながらまた笑った。