「助けてください」
そう声が聞こえた。誰の声だ?どこがで聞いたことのあるような声。俺の知っている声だ。
「お願いです。私を助けてください」
姿は見えない。全てが真っ暗だ。真っ暗な世界の中で、声だけが聞こえてくる。やがて闇の中にぼんやりと一人の少女の姿が浮かび上がってくる。俺はその少女のことを知っていた。
その少女は北風つばさだった。
ただの情報の塊でしかないはずの少女は、闇の中で小さくうずくまって泣いていた。ふと、俺は違和感を感じる。泣いている少女は間違いなく北風つばさだ。なのにいつもと印象が異なるように感じる。覇気がないというか、輝きを失っているような感じだ。
そういえば、画面の中でみる北風つばさはいつも笑っていた。アイドルなのだから当たり前といえば当たり前なのだが、泣いているところを見たことは一度もなかった。それに、なんというか、この北風つばさはとてもリアルだった。というか、本物の人間にしか見えない。人に作られた偶像ではなく、生身を持った人間。完璧なはずの少女はまるで自分の名前と同じ名称で呼ばれる空を飛ぶ翼を失ったように、大地の上で土にまみれて汚れていた。その汚れが少女に人間らしさを与えている。命とは汚れそのものだからだ。
少女は黒いパーカーを着ている。フードを目深にかぶり、下を向いて泣いている。小さく小刻みに震える両手はそのフードを左右対称に掴み、血が出るほど強く握られていた。その下は黒色のショートパンツ。そして足元は素足だった。靴も靴下も履いていない。女の子座りというのだろうか?白い足を八の字に曲げてぺたんと黒い闇の中にお尻をつけて座り込んでいた。
俺は黙ってその姿を眺めていた。
俺が少女にしてやれることはなにもない。その事実を俺は今までの経験から知っていたからだ。
しばらくすると、不意に少女が顔を上げ、俺を見た。
そこには真っ赤に光る二つの瞳があった。少女の目。北風つばさの持つ、攻撃的で情熱的な赤い瞳。その瞳だけは俺の知っている北風つばさと同じ印象だった。いや、それ以上かもしれない。それ以上に魅力的だ。
少女が闇の中で俺にゆっくりと手を伸ばす。
真っ白な手。小さくて細い病人のような手。
「お願い。お願いだから、、私を見捨てないで」
俺の体は震えていた。目を背けたいという強い気持ちにさらされる。しかし俺はそれを我慢した。唾を飲み込み、少女の瞳を凝視する。
目をそらしてはいけない。向き合わなければいけない。
いつの間にか、少女の手は俺の目の前まで伸びていた。時間の感覚がよくわからない。距離感もつかめない。俺に認識できるのは少女の手と、そして赤い瞳だけだった。
少女の手が俺の喉に伸びる。俺は動かない。いや、もう動くことができなくなっていた。少女の手が俺の喉をつかんだ。冷たい。まるで花の手のようだ。
少し遅れてもう片方の手も、同じように俺の喉をつかむ。
頭の中にフードを血が出るほど強く握っていた少女の手が思い浮かんだ。あの力で握られたら、本気で抵抗してもふりほどけないかもしれない。それくらいの執念があの手には込められていた。もしかしたら両手だけになっても、この手は俺の喉を握るのをやめないかもしれない。
「う、」
強烈な絞殺力に思わず呻き声が上がる。これは、予想以上だ。この少女は、なぜこれほど、世界を恨んでいるのか、その理由を少し知りたいと思った。どれほどの悲しみが、これほど強大な恨みを発生させるのか知りたかった。
俺の想像できないような闇が、人の心の中にはある。
『違うよ。闇は初めから人の心の中にしかないんだ』久しぶりに俺の中の誰かが口を開いた。確かにそうかもしれない。この世界を作り出している闇だって、きっと俺の心が生み出したものだろう。