【起稿2026年10月3日記事】
日付が変わりました。今日の東京は良い天気となるようで、暑くなりそうです。
さて東京は、人口数千万人を抱える世界一の大都市圏として、今や関東全域に及ばんとする経済的・文化的広がりを持ちますが、半世紀前1970年代前半までは、そこまでの広がりは見られず、栄えているのは、山手線内か都区内、せいぜい東京都内及び京葉・京浜地区に限られていました。
そして、京葉・京浜地区を除くと、東京というのは、池袋、新宿、渋谷という巨大ターミナル駅のある「副都心」から概ね西へ広がっています。
その副都心の中心に位置するのが新宿で、私のような中央東線沿線に住む者は勿論、東京郊外のベッドタウン居住者にとって馴染み深い街です。
一方昭和の時代、全国に知られる東京を代表する繁華街として上野・浅草と同様に、新宿は、地方出身者が目指す地でもありました。
そんな新宿を、私はそこに取り込まれず(居住等深入りせず)、しかし、すぐ近くで観察しながら生きて来たと言えます。
私が新宿を一言で言い表すなら「カオス(混沌)」ですね。
「カオス」は、「区別が立たず物事が入り混じっている状態。もしくは、物事が無秩序で、まとまっていない状態。」という意味ですが、語源は、古代ギリシャ語の「大口を開けた」という意味もあるギリシャ神話の原初の神カオスとされます。
まさに、「新宿」という街の恐ろしさをも含有する言葉です。
そうした事もあり、世田谷区の高級住宅街と並び、新宿区内のマンションには、地方出身の芸能人も多く住んでいます。また、新宿区内には、低価格家賃のアパートの建ち並ぶエリアもあり、昔から芸能人を含め若手文芸人も居ます。
しかし、「新宿」の魔性にやられたのか、はたまた、芸能界の「妖しい渦」に呑まれたのか、新宿には、「女性アイドル歌手O」や「演歌の星F」をはじめ、芸能人にまつわる悲しい話が幾つか遺ります。
本日は、地方出身芸能人の幾つかの悲劇を元に、在りし日のお姿を偲び、菩提を弔おうと、悲話を創作してみました。
これから記述する悲話は、私の創作物語であり、実在したいかなる人物とも関係有りません。
創作悲話---------------
1952年の春、北海道東部の小さな村を、激しい揺れが襲った。
十勝沖地震だった。
家々の柱が軋み、大地が大きくうねる中、混乱の中で、北霧子の父は命を落とした。
残されたのは、妻の裕子と、まだ幼子だった娘、霧子だった。
でも裕子には、三味線があった。
夫と暮らしていた頃には、祭りや祝い事の席で弾く程度だったが、それ以外に、幼い娘を養っていく術を知らなかった。
しかも、夫には借金が残されていた。
「お父ちゃんが残した借金は、私が返す。霧子には、絶対に苦労させない。」
裕子はそう言った。
だが、その言葉とは裏腹に、霧子の人生は、物心ついた頃から苦労そのものだった。
翌年から、裕子は霧子を連れて釧路へ出た。
夜になると、釧路の末広町には、霧が流れ込んできた。 街灯の明かりが霧に滲み、飲み屋からは酒と煙草の匂いが漂っていた。
裕子は三味線を抱え、3才になった霧子の手を引いて、店から店へ歩いた。
「お客さん、景気付けに一曲どうですか?」
裕子が頭を下げる。
店の奥から、 「おい、三味線屋。何か弾け。」という声が飛んでくる。
裕子は黙って三味線を構える...
酔客の笑い声。
皿の触れ合う音。
煙草の煙。
その中で、裕子の三味線だけは妙に澄んで聞こえた。 霧子は母の膝元に座り、じっとその音を聞いていた。 やがて裕子の三味線に合わせて、霧子は小さな声で唄うようになった。
最初は、ただ母の真似をしていただけだった。
ところが、5歳、6歳になる頃には、店の客たちが振り返るほどの声になっていた。
「なんだ?この子…!」
ある酔客が、煙草をくわえたまま霧子を見つめた。
「もう一度、唄ってみろ。」 霧子は母を見る。 裕子が小さく頷く。 霧子は唄った。 まだ幼い少女の声だった。 しかし、その声には不思議な哀しみがあった。
まるで、本人が経験した事の無い別れや、叶わない恋や、戻れない故郷を知っているかのようだった。
店内が静かになった。
唄い終えると、誰かが小さく拍手をした。 それが次第に大きな拍手になった。
「この子、ただ者じゃねえぞ」
その夜から、霧子は釧路の夜の街で知られるようになった。
「三味線弾きの娘」
「人形みたいに可愛い子」
噂は噂を呼んだ。
霧子は学校でも目立った。色白で、黒目が大きく、笑うと人形のように愛らしい。
しかし、放課後になると、友達と遊ぶより、母の手伝いをしていた。
そんな霧子を、いつも気に掛けている少年がいた。
及川大輔と言い、 霧子より5歳年上だった。
ある夜、霧子が店先で酔客にからかわれていた。「嬢ちゃん、随分小さな芸者だな?」笑い声が上がった。 霧子は黙って俯いた。
そのとき、大輔が間に入った。 「やめろよ!」
「なんだ、お前。」
「この子は芸者じゃない。歌手だ!」
少年のくせに、妙に必死だった。
その日から、霧子は大輔を慕うようになった。
大輔もまた、妹のような霧子を可愛がった。
だが、いつしかそれは、二人の淡い初恋へと変わっていった。 霧子が唄う姿を見るたび、大輔は思った。 この子には、こんな場所は似合わない。 もっと明るい場所で、もっと大勢の人に唄を聞いてもらうべきだ。
そんなある日だった。
東京から、一人の男が釧路へやって来た。 レコード会社の社員だった。 霧子の噂を聞きつけ、わざわざ釧路まで来たのだという。
男は霧子に「おじさんと、東京に来ればスターになれるぞ。」と言った。
裕子には「この子には才能があります。ちゃんとレッスンを受ければ、歌手になれる。」 と言った。
裕子は黙っていた。
東京...
その言葉は、貧しい母娘にとっては、夢そのものだった。
だが霧子は迷った。
学校の友達。
大輔。
そして、何より母。 自分だけ東京へ行っていいのだろうか。
「お母ちゃんを置いていけない。」
霧子は泣いた。
裕子も泣きながら言った
「行きなさい。」
「嫌だよ。」
「霧子。お前は、私みたいになっちゃいけない。」
裕子は娘の肩を抱いた。
「お前は唄うんだ。唄って、ここから出るんだ!」
大輔は最後まで反対した。
「東京なんか行くなよ...」
「どうして?」
「知らない奴ばかりだ。騙されるかもしれない。」
「でも、東京へ行けば、お母ちゃんに楽をさせてあげられる!」
霧子はそう言った。
大輔は何も言えなかった。
数年後、霧子は中学生になり、大輔は高校生となっていた。
霧子は、高校に進学せず、釧路を離れる事を決めた。
駅のホームで、裕子は何度も手を振った。 大輔は、少し離れたところに立っていた。
汽車が動き始める。
霧子は窓から身を乗り出した。
「大ちゃん!」
大輔は手を振った。
「霧子! 絶対、帰ってこいよ!」
駅のホームの大輔は、霧の向こうへ消えていった。 それが、二人が会った最後の日になった。
東京で霧子を待っていたのは、華やかな夢ではなかった。
父の知人だった男の家に居候して、昼間は、レストランでウエイトレスをしながら、レコード会社へ通い、歌のレッスンを受けた。
東京の生活は忙しかった。
夜になると霧子はギターを抱えて新宿へ出た。 流しだった。
小さな酒場の前で唄い、客から小銭をもらった。
釧路で母と歩いた夜の街を思い出しながら...
「いつか私はスターになる!」
霧子は自分に言い聞かせた。
「そうしたら、お母ちゃんを東京へ呼ぶんだ。」
新宿の夜は、釧路よりも大きく、華やかで、そして恐ろしかった。
人間の欲望が、街の隅々まで渦巻いていた。
だが、霧子は夢しか見ていなかった。
そして17歳になった年、ついに霧子はデビューする事が決まった。
デビュー曲は、故郷の霧を思わせる大人っぽいブルース歌謡だった。
発売されると、たちまち評判になった。
テレビに出る。
ラジオから唄が流れる。
雑誌の表紙を飾る。
「演歌の星、北霧子」
いつしかマスコミからそう呼ばれるようになった。

霧子は売れた。
驚くほど売れた。
最初に買ったものは、自分のための高価な服ではなかった。
北海道の母に贈る家だった。
「お母ちゃん、もう夜の街を歩かなくていいよ。」
裕子は新しい家の玄関で泣いた。
「霧子…」
「これからは、ゆっくり暮らして。」
裕子は何度も頷いた。
「ありがとう。」
その言葉を聞いた霧子は嬉しかった。
自分の苦労は無駄ではなかった。 そう思った。
有名人となった霧子自身も、新宿の高級マンションへ移った。
窓から見える東京の夜景は、宝石のようだった。
...しかし、その頃から霧子の心と身体は少しずつ壊れていった。
朝からテレビ。
昼は地方公演。
夜は宴席。
翌朝には飛行機。
本人の体調など、仕事を決める人間にとっては二の次で、まるで「物」を扱っているようだった。
「北さん、今日もお願いしますよ」
「明日は大阪、その次は札幌です」
「人気があるうちに稼がないと...」
霧子は笑って頷いた。
「はい。」
断れば、仕事がなくなる。 そう思っていた。
眠れない夜が増えた。
食事が喉を通らない日もあった。
鏡を見ると、以前の自分とは違う顔が映っていた。
それでも、ステージに立つと霧子は笑った。
そして唄った。
客席から拍手が起きる。
声援が飛ぶ。
霧子は頭を下げる。
その瞬間だけは、昔の自分に戻れた。
母の三味線。
釧路の霧。
大輔の声。
「絶対、帰ってこいよ!」
そんなある日、霧子の前に一人の男が現れた。
沖坂慶次。
ベテラン人気俳優で霧子より10才以上年上だったが、
甘い顔立ちと巧みな話術で
、芸能関係者の間では、「希代のプレーボーイ」と陰で囁かれていた。
「北さん、ずいぶん疲れてるみたいだね...」
「そう見えますか?」
「僕には分かるよ。」
その言葉が、霧子には嬉しかった。
誰もが霧子を「商品」として見ていた。
歌手として。
人気者として。
稼げる女として。
その中で初めて、自分の疲れを見てくれた人が現れたような気がした。
二人は親しくなった。
いつしか男女の関係になった。
霧子は、沖坂を信じた。 「私、あなたなら信じられる。」
沖坂は笑った。
「もちろんだよ。」
だが、その言葉の裏側で、沖坂が考えていたのは別の事だった。
人気歌手との交際。
それを利用すれば、自分の名前もさらに売れる...
霧子は、その事を知らなかった。
やがて、二人の関係は芸能界の噂になった。
写真週刊誌が騒ぎ始めた。 テレビ局も面白がった。
沖坂の名前は、ますます知られるようになった。
その一方で、霧子の心は少しずつ沖坂に依存していった。
疲れ切った夜、電話をする。
「慶次さん、会いたい。」 「今日は無理だよ。」
「どうして?」
「仕事だよ...」
最初は、人気者同士だからと我慢した。
しかし、やがて慶次が電話に出ない夜が増えた。
ある日、霧子は街で沖坂を見かけた。
若い女と歩いていた。
二人は、楽しそうに笑っていた。
霧子は声を掛けられず、遠くから見ていた。
翌日、霧子は沖坂に尋ねた。
「昨日、一緒にいた人…誰なの?」
沖坂は面倒そうに答えた。 「友達だよ。」
「本当に?」
「何だよ。君、重いよ。」 その言葉が、霧子の胸に突き刺さった。
重い...霧子はその夜、眠れなかった。 幼い頃から、ずっと誰かに必要とされたかった。
母に必要とされた。
客に必要とされた。
レコード会社に必要とされた。
ファンに必要とされた。
そして、沖坂にも必要とされていると思っていた。
...しかし、それは全部、間違いだったのか?
数年後。 霧子は、沖坂から別れを告げられた。
「もう、終わりにしよう...」 「どうして?」
「君とは、もう十分だよ...」 「十分...?」
霧子は意味が分からなかった。
「私は、貴方を愛していたのよ...」
「そういうの、もういい...」冷たい声だった。 霧子は立ち尽くした。
「私、何か悪いことをしたの?」
「してないよ。ただ、僕はもう君とは付き合えない。」 それだけだった。
沖坂は去った。
霧子は一人になった。
その夜、新宿の街には霧はなかった。
釧路とは違う、乾いた東京の夜だった。
高層ビルの灯りが、遠くまで続いていた。
霧子は自分の部屋へ戻った。 壁には、デビュー当時
の自分のポスターが貼られていた。
「この頃の私、幸せだったのかな?」
霧子は呟いた。
机の上には、北海道から届いた母の手紙があった。 「身体を大切にしてください。無理をしないでね。」
霧子は手紙を何度も読み返した。
そして、子供の頃のことを思い出した。 釧路の夜。 母の三味線。 大輔の声。
「絶対、帰ってこいよ!」 霧子は微笑んだ。
「お母ちゃん…ごめんね。」
壁のポートレートの母に話すと、霧子は静かに屋上へ向かった。
新宿の街明かりが、足元に広がっていた。
かつて憧れた東京だった。 自分を貧しさから救ってくれた東京だった。
そして今、自分からすべてを奪おうとしている東京だった。
霧子は目を閉じた。
遠い北海道から、三味線の音が聞こえたような気がした。
母が弾いている。 幼い自分が唄っている。
そして、少し離れたところで、大輔が笑っている。
霧子は微笑んだ。
「お母ちゃん…ごめんね...」
翌朝、高級マンションの下には、人だかりができていた。 警察車両が停まり、救急車の赤色灯が回っていた。
ニュースを聞いた芸能関係者たちは口々に言った。
「まさか…」
「まだ若かったのに。」
「人気絶頂だったのに。」 テレビでは、霧子のヒット曲が流された。
レコード会社は、追悼盤を発売することを決めた。
その歌は、瞬く間に売れた。
皮肉なことに、霧子が亡くなった後、彼女の歌は生前以上に人々の心を捉えた。
北海道の家で、裕子は娘の歌を聞いていた。
小さな仏壇の前に座り、ただ泣いていた。
「霧子…」
その夜、母は三味線を取り出した。
しかしもう、弾く気力などなかった。
それでも、娘が幼い頃に好きだった曲を、震える指で弾いた。
音は途中で、何度も何度も途切れた。
それでも裕子は弾くのを止めなかった。
その頃、一人の男が、古いレコード店の前に立っていた。 及川大輔だった。 新聞に載った霧子の写真を見つめていた。
あの頃と同じ、色白の顔。 しかし、もう笑ってはいなかった。
大輔は新聞を胸に抱いた。 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「霧子…帰ってこいって言ったのに...」
涙が頬を伝った。
「俺、待ってたんだぞ…」
釧路の夜には、霧子が東京に旅立った日と同じように霧が立ち込めていた。
母の三味線の音も。
少女の歌声も。
少年の呼び声も。
全ては、遠い昔の記憶になった...
北霧子。
「演歌の星」と呼ばれた少女は、わずかな年月だけ東京の夜空に輝き、そして消えていった。
その星が、なぜあれほど美しく輝き、なぜあれほど早く消えてしまったのか。 誰にも分からない。 ただ、釧路の夜霧の向こうから、今もかすかに、幼い少女の歌声が聞こえてくるような気がする。
「お母ちゃん…」
その歌声を聞く者は、もう誰もいない...